音楽評論家には「資格」が必要なのか? 『にほんのうた』『音楽評論の一五〇年』『トーキョー・シンコペーション』を読んで

『音楽評論の一五〇年』が着目した音楽評論とメディアの関係性

 アカデミズムの作法を踏まえないで歴史を書くことに対する反感が『にほんのうた』をめぐる騒動にはあったのではないかと、みのは刊行後に述懐していた。

 ポピュラー音楽の研究はすでにアカデミズムに取り込まれていて、音楽批評と音楽学の区別は曖昧になっている。これは音楽に限った事情ではなく、文芸批評などでも批評を書いている(書く場所を与えられている)のはもはや学者ばかりだ。

 音楽批評と音楽研究とを比べて、前者を主観的、後者を客観的とするのがありがちだが、そう単純な話でもない。むしろ両者は同床異夢なのではないか。

 白石美雪『音楽評論の一五〇年 福地桜痴から吉田秀和まで』(音楽之友社)はタイトルどおり、明治の西洋音楽移入以降、日本において音楽評論がどのように展開してきたかを検証した本だ。音楽評論史だが、みの本とは違い通史は目指さずに、重要な出来事を拾い上げ時系列に沿って整理している。対象もクラシック音楽評論に限定されており、ロックだのジャズだのは登場しない。

 なんといっても目を引くのは、音楽評論の鼻祖に福地桜痴が置かれていることだろう。

 政治小説家、政論家、戯作家、ジャーナリストなど桜痴はいろいろな肩書きで知られているが、音楽評論家と見なした例はなく、著者が「音楽史の分野で桜痴に注目する人はこれまでいなかった」と自負するように本書が初めてである。

 白石が桜痴を本邦初の音楽評論家とした根拠は、桜痴が幕末からの何度もの洋行で西洋音楽に親しんでいたこと、なかでも文明開化に重要な岩倉使節団に同行し各国の音楽を聴いたことに加え、桜痴が主筆を務めた『東京日日新聞』の社説で、音楽についての論説を散発的ながら継続的に書いていたことに求められている。

 白石による桜痴の音楽評論家としての評価は、「桜痴は音楽がわからなかったと断言してもよい」という酷いもので笑ってしまうのだが、ここで重要なのは、音楽評論が、新聞ジャーナリズムの片隅から誕生したという事実に著者が着目したことだ。この本に一貫しているのは、音楽評論はその発祥からずっとメディアと不即不離だったという認識である。

 「音楽を批評するという行為、それが様々なメディアを通じて、聴き手である読み手に伝えられるプロセスそれ自体を当たり前のものと感受してきた現在の状況をもう一度、みなおしてみる」

 音楽評論史上のトピックを拾い上げたこの本にはもう一つ異質な箇所があって、それは東京芸術大学音楽学部の楽理科に1章を割いていることである。

 「楽理」といってどの程度了解されるかわからないが、これは古い言葉で、今でいう「音楽学」である。

 楽理科が設置されたのは、戦後教育改革で東京音楽学校と東京美術学校が併合され、東京芸術大学が誕生した1949年。それまでの演奏技術養成一辺倒から脱し、芸術としての音楽を追求するための要として設置されたのが楽理科だった。

 楽理、音楽学とは何か。音楽にまつわること一切をめぐる探究である。次に取り上げる『トーキョー・シンコペーション』(音楽之友社)の著者である音楽学者の沼野雄司が、その前著『音楽学への招待』(音楽之友社)に、「読んで字のごとく、音楽についての学問の総称が「音楽学」である」と書いている。

 つまり、音楽という事象をめぐり、何かしら研究していれば「音楽学」である。この定義に照らして、在野、非在野の区別を無視すれば、みの『にほんのうた』も「音楽学」に括れないことはない。

 音楽評論を歴史的に説いた本が「楽理=音楽学」を大きく取り上げている理由もそこにある。著者は、芸大楽理科を、ジャーナリズムとアカデミズムを止揚する場であり、「日本の音楽評論家の養成機関になっている」と考えているのだ。

 「アカデミズムとジャーナリズムの矛盾と同一性は、大学が大衆化し、言論がマルチメディア化される戦後の数十年、継続していく。その典型例として、東京芸術大学音楽学部楽理科があると言っていいのである」

 そして実際、この『音楽評論の一五〇年』を書いた白石美雪もまた、芸大楽理科出身の音楽学者であり、音楽評論家なのである。

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