音楽評論家には「資格」が必要なのか? 『にほんのうた』『音楽評論の一五〇年』『トーキョー・シンコペーション』を読んで

 みの『にほんのうた 音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』(KADOKAWA)をめぐって起こった論争は興味深かった。

 著者が本書の発売を予告するや、議論が湧きあがった。みの本人は炎上と言っているが、エアリプでの批判や揶揄が多く(そのせいか、たどるのが難しく十分にはいかなかった)、議論と呼ぶにはたしかに陰湿気味ではあった。

 著者の資質への疑問や、通史を個人が書くことの是非、間違った知識を広めたら責任を取れるのかという抑圧が目立ったように覚えている。

 傍目に眺めながら、これは奇妙な状況だと思った。なぜと言って、本の発売は3ヶ月も先であり、まだ読めない状態であるにも関わらず、不特定多数が、その本が出版に値するか否かを「議論」しているのである。

 「責任取れんのか」と抑圧をかけることは、「完全に無謬な歴史を書く自信がないなら書くな」と言うのに等しい。言うまでもなくそんなことは不可能だから、煎じ詰めれば「書くな」と言っていることになる。

 内容がデタラメだという批判が殺到し販売停止となった『ゲームの歴史』(講談社)という悪しき前例が直前にあったとはいえ、「完全無欠な歴史書でなければ出版されるべきではない」とする独断的な価値観が伝染し、共感が広がって(実際、同調する人や、そんなの当たり前じゃんと考えているらしい人を見かけた)、出版社に発売中止を求める抗議運動などに発展した場合、「大衆的検閲」と呼ばれる事態となる。

 飛躍しすぎだと言うかもしれないが、奇しくも『にほんのうた』の炎上と同じ時期に、そんな具合の「大衆的検閲」により、本当に発売中止に追い込まれた本があった。『あの子もトランスジェンダーになった』というタイトルでKADOKAWA(偶然にも『にほんのうた』と同じ出版社だ)から発売される予定だった翻訳書に対して、「トランスヘイト本を出すな!」と抗議が殺到して、出版社が発売をやめてしまったのである。

 これから翻訳が出る海外書籍について、ほとんどの抗議者(中には作家や批評家、編集者、書店関係者も少なからずいた)が読みもしないで差別本だと決めつけて「出版をやめろ!」と叫んでいたのだから異常事態と言うしかない。異常を異常と認めず、自分たちの「正義」を疑わない熱狂が「大衆的検閲」を発動させる。最悪の場合ファシズムにつながるのは容易に想像できるだろう。

 同書はその後、産経新聞出版から『トランスジェンダーになりたい少女たち』とタイトルを変え発売される運びとなったが、この二度目の発売に際しても、大手書店や版元に対して放火すると脅迫が届くなど異常事態が続いている。

 仮に『にほんのうた』が『ゲームの歴史』と同じようなデタラメ本であったとしても、批判は出版後に、実際の内容に則してなされるべきである。それが表現の自由というものである。

 その程度のことは、表現に関するいろは、ましてや批評を読んだり書いたりする人間は大前提として踏まえていることだと思っていたので、『にほんのうた』をめぐる騒動には前提の土台が揺らいでいるような気味の悪さを覚えた。『あの子もトランスジェンダーになった』騒動と並行していたせいもあって、何かしらの大義名分を振りかざせば、他人の表現行為を抑圧することが正当化されるという意識がうっすらと広がっているように見えたからだ。これが行きすぎればキャンセルカルチャーになるわけである。

『にほんのうた』が向き合おうとした二つの「歴史のねじれ」

 さて、いい加減、『にほんのうた』の内容に移ろう。

 縄文時代から現在にいたるまでの日本の音楽全体を一気通貫する通史を書こうという試みである。著者が動機として述べるのは二つ。そのような本が存在していないこと。もう一つは、海外からの視点を内面化するのではないかたちで(言い換えれば、海外での評価を逆輸入するのでないかたちで)日本人が日本の音楽の歴史を把握する必要性を強く感じていること、である。

 後者の危機感は、インターネットやサブスクによるグローバル化で、日本の音楽が歴史性を喪失したかたちで海外で受容されると「歴史のねじれ」が加速するという予感から来ているようだ。シティポップ・ブームが海外から火が付いたことなどが脳裏にはあるように思われる。

 「輸出する側に知識がないまま世界の音楽と合流すれば、どれだけ素晴らしい音楽でも簡単に使い捨てられてしまう」

 「歴史のねじれ」は、明治期に西洋音楽を導入したさいに日本の音楽に起こったことでもあり、その「ねじれ」が、日本の音楽を首尾一貫して語ることを難しくさせている、とも考えられている。

 したがって本書の目論見は、日本の音楽史に内在する「歴史のねじれ」を解きほぐし、海外での受容が増えることで悪化しかねない「歴史のねじれ」に備えること、と要約することができそうだ。

 この二つの「ねじれ」は、受容に際してのミステイクという点は共通しているが、現象としては別のものと見ていいだろう。後者の例としてあげられるのは、ジュリアン・コープによる戦後日本音楽史『ジャップ・ロック・サンプラー』が事実誤認まみれなのに、海外では「正史」のように受け留められている事実である。

 そのような目論見で記述された本書だが、やや羊頭狗肉に終わっているかなという感想である。これは自分にも言えることでどうしようもないことでもあるのだが、知りえないことについては調べて書くしかない。本書のように浩瀚な歴史書の場合、ほとんどの事項について、調べて書く、ことにならざるをえない。「調べる」と「書く」との間には咀嚼するプロセスがあるわけだが、咀嚼が生煮えに感じられてしまった、言い換えると、資料そのままに思えてしまう箇所が少なくなかった。

 まあ、これは、評者が音楽関係書を普通より多く読んでいるため、心当たりが浮かんでしまうせいもあるだろう。資料から引いた部分と著者の考えが不分明であるという批判があったが、これも難しいところだ。一般書でいちいち出典を明示するとうるさくなり、リーダビリティが犠牲になってくる。学術書ではないのだし、巻末に参考文献があげられているのだから、記述のスタイルとして許容されてよいのではないか。

 ともあれ資料を渉猟し、日本の音楽の歴史を1巻にまとめ上げた力業は敬服に値するし、著者の目論見の達成度は別として、インデックスとして便利な1冊に仕上がっている。

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