『ドラゴンボール』連載当時の裏話……人気爆発のきっかけ、超サイヤ人が金髪にした理由は?

 『週刊少年ジャンプ』(集英社)の人気を牽引した少年マンガ界のトップランナーであることは言うに及ばず、『ドラゴンクエスト』のキャラクターデザインなどを通してゲームやファンタジーの分野にも影響を与えた漫画家・鳥山明氏。その画業はどれも偉大で、語り尽くすことは到底できないが、今回は最大のヒット作である『ドラゴンボール』を取り上げていきたい。

  同作にまつわるさまざまな裏話を振り返ることで、連載当時にどんなことが起きていたのか、あらためて想いを馳せるとしよう。

 『ドラゴンボール』が連載されたのは、1984年から1995年のこと。『週刊少年ジャンプ』の発行部数が右肩上がりに伸び、“黄金時代”と呼ばれていた頃と重なっている。ちなみに同誌が653万部という伝説の発行部数を記録した1995年新年3・4合併号は、『ドラゴンボール』の魔人ブウ編が掲載されており、連載500回を記念したカレンダーポスターが付録となっていた。

  そうした輝かしい実績を見るに、『週刊少年ジャンプ』誌上の人気もつねにトップクラスだったものと想像してしまいがちだが、実は苦戦していた時期もあったという。連載が始まった当初の鳥山氏といえば、その前に手掛けた『Dr.スランプ』を大ヒットさせた作家であり、大きな期待を背負った状態でのスタートだった。しかし読者人気の指標とされている掲載順で見ると、初期の頃は伸び悩んでおり、20話~30話あたりでは10位前後で2ケタになることもあったほどだ。

  実際に当時の担当編集者である“Dr.マシリト”こと鳥嶋和彦氏は、初期の読者アンケートが芳しくなかったことをインタビューなどで明かしている。危機感を抱いた鳥嶋氏と鳥山氏があらためて方向性を話し合うなかで、主人公の孫悟空が強さを求めるキャラクターとして明確化され、その後の天下一武道会などの熱いバトルマンガ的な展開につながっていったそうだ。この方向転換によって『ドラゴンボール』は爆発的な人気を獲得することとなり、最初の天下一武道会が描かれたエピソードあたりから掲載順が一気に安定するようになっている。

  その後、同作は読者アンケートで圧倒的な得票数を誇るようになり、フリーザ編では今でも語り継がれているほどの伝説を残すことに。1,000通の無作為抽出による読者アンケートにて815通で「おもしろかった作品」に選ばれたのだ。単純計算で8割以上の読者に支持されていたと考えると、想像を絶するほどの盛り上がりではないだろうか。

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