「猿」と「人間」の異種交流譚ーー小砂川チトの奇妙な小説『猿の戴冠式』を読む

 作品のクライマックスでシネノは、太宰治「猿ヶ島」(1935年)の二匹の猿さながら、ほとんど唯一心を許した同種である老いたメスボノボのシヅエとともに、動物園からの脱走を図る(いちおうのこと触れておくと、本書には、古今東西の「猿」の物語がさまざまに響き合っているように思われる)。こうした展開について、たとえば、ある選考委員は〈ボノボが逃亡する後半から急に作者の筆の抑制が利かなくなったように思う〉と書き、ある選考員は〈後半、そのスピードが出過ぎたのか、ランナーズハイ状態になってしまった。落ち着いていこう!と読んでいるこちらがペースメーカーじみた気分に。しかし、そんな読み手を置いてけぼりにして、小説はラストスパートへ。あえて、逆走してみても良かったと思う〉と書く。なるほど、それらはいずれも正しい指摘であるだろう。だがそもそも、本書で彼女らが目指したのは、そうした分別ある大人らの諫止する声からの「逆走」ではなかったか。利口な「抑制」を止め、あらゆる目線を「置いてきぼり」してみること。無論、そうした行ないは「正しい」とは言えないのだろう。だが、しふみは言う。

〈たしかにわたしたちはいま、現在進行形でおおいに間違っている、間違いのなかをスノーモービルみたいに突き進んでいる。でもね、かといって連中のほうが正しいって話にはまったくならないんだってことに、だーれも、ちっとも気づいていないのが、シネノ的にはなんだかもう、傑作。わたしたちは間違っているかもしれないがしかし、お前たちもまた・そこに輪をかけて・超・間違っている〉

 曰く「お前たち」も「超・間違っている」。それは、動物実験をされていた頃のシネノに、ガラスの向こうの安全圏(「制御室」)から「【悪い子】(バッドボーイ)!」と連呼した「白い服の人間たち」のことであり、動物園の檻にカメラを向け、思い通りに動かない彼女を「何様のつもりなんですかね、あのメス?」と笑いものにしたテレビのコメンテーターたちのことである。あるいはメンタルケアと称してしふみの家に上がり込みながら、彼女に拒まれると「バッカおまえ」と罵るコーチのことであり、一方的にネット上で彼女の外見に対し「〈美人どこ?〉とか〈チェンジで〉とか〈思てたんとちがう〉とか」などと誹謗中傷する匿名者たちのことである。そうした人々の投げかけてくる言葉の桎梏から逃れ、解き放たれるために、彼女たちは「間違いのなかをスノーモービルみたいに突き進んでい」く。ゆえにと言うべきか、本作の結末は(意外にも?)爽やかである。アワードは取り損ねたかもしれない。だが、自ら誇れるのであれば、冠は自分で戴けばよい。本書の最終盤、しふみは新たに靴紐をむすび直し、再び歩き出す。そして、本書はこのように終わるのである。

〈それでも依然として/われわれは/われわれにとって/たぐいまれなる猿。〔……〕われわれは/この器用な前肢で/みずから/言葉を発し/てづから/かんむりを戴き/そうして/その、すこぶる丈夫な後ろ肢で。/森の外/もっと遠くへ/それでこそ/それでこそ/それでこそ。〔……〕歩くのだ/歩けばいい/ひとりでも/ただ、気高く。/それでこそ/それでこそ。〉

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