2025年大河ドラマで注目! 歌麿や写楽を売り出した江戸時代の敏腕出版プロデューサー・蔦屋重三郎の編集力

写楽のデビュー作はとんでもない問題作

 蔦重と歌麿は、このように次々と発布される幕府の禁令の裏をかき、丁々発止の快進撃を繰り広げた。またこの頃、蔦重は若き日の曲亭馬琴、十返舎一九を店で雇って育てるなど、先見の明もあった。

 東洲斎写楽を売り出したのは、蔦重が亡くなる三年前の寛政六年(1794年)のこと。これ以上歌麿と組んで、美人画や春画で幕府を敵に回すのはまずいと見るや、本格的に役者絵を売り出すことに切り替えた。

 ちょうど桐座・都座・河原崎屋の控櫓三座が揃うことで、五月興行に注目が集まるのに合わせての刊行だったが、すでに固定ファンが付いている役者絵の土壌に斬り込むに当たり、蔦重は大博打を打った。

 通常、役者絵を買うのは贔屓筋ゆえ、絵師は役者を格好良く美化して描く。ところが蔦重は、誰も聞いたことがない無名絵師の写楽に、役者の素顔そのままの似顔絵を描かせ、背景を黒雲母摺で塗りつぶすという贅沢な手法で、一挙に二十八枚を同時発売した(本来、新人絵師の売り出しは多くて三枚程度)。

 蔦屋の店先全体が、芝居小屋さながら、黒光りする背景に役者たちを浮き立たせたのである。

 現代人には見慣れた作品群で、もはや役者絵といえば写楽のものしか浮かばない方も多いだろうが、当時、写楽のデビュー作はとんでもない問題作だった。

 素顔のままの似顔絵ということは、不細工な役者は不細工なまま、老いた女形は老いたまま描かれたということで、芝居関係者や贔屓筋からはクレームが殺到した。……が、話題性は十分で、後発の蔦屋が役者絵を始める宣伝効果は十二分にあっただろうし、芝居に熱中する女性陣を快く思っていない男性陣には大いに受けた。

 蔦重の仕事は、常に世間の注目を浴び、時代をリードしていた。

 寛政九年(1797年)五月、蔦重は帰らぬ人となる。享年四十七。

 蔦重の死因は脚気だと記されている。江戸に住む裕福な人間しかかからない病であったため、当時は『江戸わずらい』や『贅沢病』と呼ばれていた。接待三昧であった蔦重らしい亡くなり方だとも言える。

 台東区東浅草にある正法寺に、復刻された墓石と、蔦重の狂歌の師である宿屋飯盛(石川雅望)による碑文が刻まれた石碑がある。そこには、蔦重の人となりについて『為人志気英邁 不修細節 接人以信(意欲的で叡智に優れ、気配りができ、信用できる人物である)』だと記されている。

■参考
『蔦重の教え』
著者:車 浮代
価格:¥781
出版社:双葉社

『気散じ北斎』
著者:車 浮代
価格:¥1,870
出版社:実業之日本社

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