俳人・小津夜景、なぜ漢詩が主題のエッセイを執筆?「親しみやすくて軽やかさがあることを前面に出したかった」

 

漢詩を読む「曲芸的」な喜び

ーー小津さんが漢詩を読むようになったのは、日本に住んでいた頃からなのでしょうか。 

小津:そうですね。日本にいたときから好きでした。フランスに来るときも、漢詩の本をカバンに入れて持ってきました。 

ーーフランスに住んでいて、読み方に変化はありましたか? 

小津:日本にいるときは単に読み下し文の響きの良さ、その日本語の節回しが好きでした。フランスに来てからは、漢詩を知らないことには、他の和歌や俳句もわからないんじゃないかと思うようになりました。こと南仏に来てからなんですが、地中海の生活の中に、古代のギリシャ文化やローマ文化の流れの痕跡がある。では、日本における言語や文化の起源は何かと考えると、やはり漢字・漢詩文なのではないかと感じるようになったんです。 

 例えば、松尾芭蕉が徘諧をつくるときも、先行する和歌や漢詩などの正統な文学に対するライバル心があります。俳句を漢詩のように、文芸としての格を上げようと、いろいろと試行錯誤してるのがうかがえます。そのように昔の詩歌を書く人は漢詩を意識して創作してきたことを思うにつけ、私も俳句とものすごく真剣に向き合わないといけないんじゃないかと思うようになりました。 

ーー小津さんはフランスに2000年から住まれているとのことですが、日本語との距離感に変化はありましたか。 

小津:そうですね。まずひとつは、日本語を忘れていくことです。自分の中の日本語が断捨離されていくような感じがします。単語もいろいろ忘れていって、不自由な日本語でものを考えるようになる。それでも残っている日本語の痕跡を見たときに、自分の素顔を見たような気がします。私というのはこういう人なんだと。 

 しかし結局、私はものを考えるとき、日本語で考えざるを得ないということを意識します。外国に来たことで、私を作っているのは日本語であることに気づかされました。言葉を忘れながらも、結局はその不自由な言葉にしがみついている。 

ーー読む上でフランス語と漢詩を比較して思うことはありますか。 

小津:漢詩は他のジャンルの文学を読むとき、あるいは他の外国語を読むときとは、全然違う経験なんです。 

 漢詩を読むということは、作品のイメージを重層的に体験していくことです。平安時代からずっとこの方、日本人は読み下しで漢詩を楽しんできました。だから視覚的に目で見たときは定型詩だけれど、聴覚的には自由詩というアンサンブルになっている。リアルタイムで、両方を一緒くたに楽しめる、不思議な感じがありますね。 

 さらに形式の重層性だけでなく、目で見ているのは中国語なのに、聞いているのが日本語であるという、言語の二重性もあります。そして目で見ているのは定型詩だけれど、耳で聞くのは自由詩である。そのように視覚と聴覚が同時に別の言語を感覚していくというのは、他の文学ではありえないことですよね。そんな曲芸的(アクロバティック)な喜びがあると思います。

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