翻訳家・黒原敏行に訊く故・コーマック・マッカーシーの凄み「徹底したリアリズムによって描かれた世界は現実さえも幻影となる」

■コーマック・マッカーシー最大の魅力

——黒原さんにとってマッカーシー作品の最大の魅力とはなんですか。

黒原:『すべての美しい馬』に続いて訳した『越境』がまた凄かったんです。これで本格的に参ってしまいました。私が今まで訳した本は、上下本や文庫化などを勘定しないで言うと98冊ですが、その中で好きな作品トップ3を選べば必ず入ります。その『越境』を訳しているときに気づいたのですが、マッカーシーの小説は、「人間と人間の関係」についてではなく、「世界」について、あるいは「世界と人間」の関係を描いています。つまり哲学的なんですね。作品そのものに「世界(the world)」という言葉が沢山出てきます。「荒野の東のほうから太陽がのぼった」という代わりに「世界の東側から太陽がのぼった」などと書いてあるんです。アメリカ南西部の荒野の描写が「世界」のメタファーとなってそこに幻影が立ち現れてくるんですよ。それは「別の世界(another world)」の幻影です。最初のほうで言った、「普通とは違う世界の眺め方」がそこにはあるんですね。

——たしかに読んでいて作品のベースとなる現実世界が薄れていくように感じるときがあります。

 私は幻想的なものが好きなのですが、最初のころ、マッカーシーの作品にはマジックリアリズムの要素があると思っていました。ところがその後、マッカーシー自身が、自分はラテンアメリカ文学流のマジックリアリズムは好きじゃないと発言したんです。おや困ったぞと思いましたが(笑)、要するに、マッカーシーの場合はあくまでリアリズムを徹底していて、超自然的な出来事は起きない。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』では殺された男の血が町の中を流れて、階段ものぼって、母親のいる部屋にドアの下から入りこむなんてことが起きますが、マッカーシーの場合、夢などのシーンを除いてそういうのはない。そうではなく現実の描写が幻想的なものに見えてくるという行き方をする。たとえば『ノー・カントリー・~』の殺し屋シガーは、要するに狂暴な犯罪者にすぎないんですが、家畜を殺す道具に似た武器で人を殺したり、コイン投げをして哲学的なことを言ったりして、それで死神に見えてくるわけです。現実と幻想の二重写しのテクニックが、私にとって最大の魅力ですね。

■遺作『通り過ぎゆく者』と『海の星(ステラ・マリス)』

数学の天才である若い女性とのその兄の物語。二人は第二次世界大戦中の原爆開発に参加した科学者を父親に持ち、その影を背負うかのような人生を歩む。作中では量子論や数学をめぐる対話が交わされ、核兵器の脅威に象徴される科学の発達がもたらす危機のものと、人が生きることに価値はあるのかが突き詰められていく。  

——遺作となった『通り過ぎゆく者』と『海の星(ステラ・マリス)』について聞かせてください。この二作はもちろん黒原さんの翻訳で早川書房から発売が予定されていますが、この二作品はどのよう物語になるのでしょうか。

黒原:この二作は一つの小説の第一部と第二部といってもいい。マッカーシー文学の集大成とも言え、それまでの作品のあらゆる要素が出てきますが、今までとは大きく違う点も二つあります。一つは量子論や数学の議論がふんだんに出てくること。もう一つは主人公の一人が女性であること。女性が主人公の作品は、今までは二作目の Outer Dark (未訳)だけでした。マッカーシーの小説は「世界」について描く小説だと言いましたが、この「世界」は「宇宙」と言ってもいいわけです。哲学からアプローチすれば「世界」で、科学からだと「宇宙」。マッカーシーはもともと科学者志望で、大学は理工学部に進みました。最先端の物理学を研究したかったようですが、自分には理系の才能がそこそこあるけれども、超一流の仕事ができるほどではないと悟り、小説執筆の道に進んだという経歴の持ち主です。

——彼の一連の作品をみると理系の人という感じはしないのですが。

黒原:これまではしませんでしたね。ただ先ほども言ったとおり『ブラッド・メリディアン』には科学文明論も含まれているし、国境三部作の『平原の町』では原爆実験のことが仄めかされていました。小説を書きつづけながらも、科学への関心は捨てていなくて、ある時期からは複雑系の研究で有名なサンタフェ研究所に特別研究員として所属していたんです。彼には文学者の友達は一人もいないけど、超一流の科学者の友達は大勢いたんですね。そういうことがこの二つの遺作で一気に出てきました。訳書が未刊なのでこれ以上詳しくは言いませんが、最もペダンチックで、最もペシミスティックで、最も悲痛な作品です。

——最後にコーマック・マッカーシー作品を読んでみたくなった人に向けて、黒原さんオススメを聞かせてください。

黒原:やはり『すべての美しい馬』と『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』と『ザ・ロード』ですね。三作ともそう長くなく、映画が読解を助けてくれます。でもマッカーシー作品は外れがありません。作者は自分で納得いくまで時間をかけて書き、納得いかなければ本にしない人でした。ちょっと手ごわいですが、『ブラッド・メリディアン』や『越境』もぜひ読んでいただきたいです。

■コ―マック・マッカーシー作品リスト

※は黒原敏行訳、()内は発表年



『果樹園の守り手』(1965)山口和彦訳/春風社
『Outer Dark』(1968)未訳
※『チャイルド・オブ・ゴッド』(1973)ハヤカワepi文庫
『Suttree』(1979)未訳
※『ブラッド・メリディアン』(1985)ハヤカワepi文庫
※『すべての美しい馬』(1992)ハヤカワepi文庫
※『越境』(1994)ハヤカワepi文庫
※『平原の町』(1998)ハヤカワepi文庫
※『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』(2005)ハヤカワepi文庫
※『ザ・ロード』(2006)ハヤカワepi文庫
※『悪の法則』(2013)早川書房

黒原敏行
1957年生まれ、東京大学法学部卒。英米文学翻訳家。
訳書『すべての美しい馬』『越境』『平原の町』『ザ・ロード』『ブラッド・メリディアン』『悪の法則』『ノー・カントリー・フォー・オールド・メン』マッカーシー、『蠅の王〔新訳版〕』ゴールディング、『シャギー・ベイン』スチュアート(以上早川書房刊)他多数。

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