テリー・ファンク死去、自著に遺したプロレスファンへのメッセージ「8月の風に秋の訪れを感じたら、それはオレだと思ってくれ」

テリー・ファンクは、ジュニアのポリスマン(用心棒)だった

  1983年8月31日、蔵前国技館のスタン・ハンセン&テリー・ゴディ戦をもって18年間の現役生活にピリオドを打つテリーが、その直前に出版した自伝である。

  父親ドリー・ファンク・シニアもまたプロレスラーだった。長男がドリー・ファンク・ジュニア、次男がテリー。アメリカのプロレス界を代表するレスリング一家である。

  幼少期はトレーラーでオハイオ、オクラホマなどを転々としジプシーのような生活をしながら、やがてテキサス州アマリロに根を下ろしたファンクファミリー。アマリロで、兄ドリー・ファンク・ジュニアと共にプロレスの英才教育を受けたテリーは、シニアの教えを忠実に守って正統派なレスリングを身につけた兄ジュニアとは異なり、荒々しいファイトで徐々に頭角を現していく。

  初来日は1970年のことで、最初はタッグパートナーではなくポリスマンとして。「おい、テリー。今度のドリーの日本遠征のポリスマンはお前に任せたぞ!」とシニアから声がかかる。ポリスマンとは、プロレスビジネスの隠語のようなもので、簡単に言えばバウンサー(用心棒)。「ジュニアにふりかかるあらゆる危険を阻止してこい」ということだ。

  プロレスはリング内外で何が起こるか分からない。ルール無用のファイトを仕掛けてくる相手であれば、その危険を察知してジュニアをヘルプするのがテリーの役割だった。

  この当時、チャンピオンがポリスマンをつけて歩くことはなくなっていたが、昔かたぎの一面があったシニアは、NWA世界王者であったジュニアに、必ずシニア本人かテリーをポリスマンとしてセコンドにつけていたのだ。

  もちろん1970年の日本遠征でテリーは試合もこなしており、ジュニアとタッグを組んで、アントニオ猪木&吉村道明組と対戦。東京体育館のインターナショナル・タッグ選手権ではジャイアント馬場&アントニオ猪木組とも対戦している。

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