川村元気 × 水野良樹「言葉、物語、対話」への向き合い方 「自分というものは常に誰かとの関係性でできあがっている」
自己完結型では、なかなか世界的な傑作は生まれない
――水野さんは、ミュージシャンでもあるわけで。「音楽には、言葉なんていらない」みたいな気持ちになるときも、やっぱりあるんじゃないですか?
水野:そうですね(笑)。言葉で表現すればするほど、表現の幅を狭めていくような瞬間はやっぱりありますよね。ただ、その一方で、言葉が表現を狭める「囲い」になるのではなく、「場」みたいになる瞬間もあるように思っていて。たとえば、そこに「わたし」とか「あなた」という主語をポンと置くことによって、誰でも入ってこられるようなものになったりするじゃないですか。聴き手が「わたし」になってもいいし「あなた」になってもいいっていう。何も設定しないと、世界が無限に広がっていくから、感動することもできないんですよ。だから、歌詞の場合は、言葉によってある程度の限定をしてあげることが必要だと思っていて。それが、聴き手の想像力をドライブさせる瞬間っていうのも、やっぱりあると思うから。
川村:日本語で主語をどう置くか、というのはとても興味深いですよね。この本を翻訳するとき、まずタイトルから取り掛かったんですけど、原題が“THE BOY, THE MOLE, THE FOX, AND THE HORSE”なので、直訳すると「少年、モグラ、狐、馬」なんです。ただチャーリーさんの言葉のトーンを考えた時に、これを「少年」ではなく「ぼく」にしたいと思いました。それを原作者のチャーリー・マッケジーさんに伝えて、同意していただいた。これを「少年」とするのと「ぼく」とするのでは、読み手の入り方がまるで違う。「少年」にすると他人の物語だけど、「ぼく」にすると自分の物語として捉えてもらえる。この日本語の重層性は、とても面白いと思っています。英語の一人称は“I(アイ)”になるわけですが、日本語には「ぼく」とか「わたし」とか「オレ」とかいろんな一人称があって、「ぼく」と言った瞬間に「少年」らしさが伝わる。この本では、モグラは「オイラ」と自称し、狐は「オレ」、馬は「わたし」と言うようにして……。
――一人称が、それぞれ違うんですよね。
川村:そうなんです。一人称のレイヤーによって、キャラクターを伝えたかった。それは、歌詞もまさにそうだと思いますが、「わたし」を使うか「ぼく」を使うかで、その入り方とかコミュニケーションが、まったく変わってしまうんですよね。
水野:日本語の一人称って、「ぼく」でも「わたし」でも、それを言う相手との関係性が必ず含まれているんですよね。公的な場所に出たら、みんな「わたし」っていう一人称を使うけど、親しい人に向かっては「オレ」って言ったりする。日本語の一人称には、自ずと相手との関係性が出てくるから。この作品は、そうやって自分というものは常に誰かとの関係性でできあがっているんだっていうことが、ちゃんと描かれているんですよね。
――ちなみに本作は、その後、作者自身の手で短編アニメーション化されて(日本ではApple TV+で配信中)、それが今年のアカデミー賞で、最優秀短編アニメーション映画賞に輝くなど、さらに大きな注目を集めました。この5月に日本で出版された『ぼく モグラ キツネ 馬 アニメーション・ストーリー』は、それを受けての一冊になるわけですが、アニメ版のほうが、よりわかりやすく物語化されているようなところがありますよね。
川村:この作品は、もともとはすごく散文的だったというか、原作者のチャーリーさんがインスタグラムで発表していたものなんです。それが多くの人に支持されて、その後、本にまとめられて出版されて、コロナ禍で広く読まれた。つまり、チャーリーさん自身は最初、物語として読ませるつもりがなくて、気が向いたときに、その時描きたいイラストと、思いついた言葉をアップしていた。それをあとから編集しているから、実は流れとか展開が、ちょっと予想外なところがあって、それがすごく面白かった。「何で、ここからここに繋がるの?」っていう(笑)。今回のアニメーション版は、それを物語化して、流れがちゃんと作られている。
水野:完成しているものと、完成していないものっていう感じは、ちょっとありますよね。原作のほうが、受け手が想像で補って完成させる部分が大きいというか。だからこそ、人によってはすごく刺さるものになっていると思うんですけど、逆に人によっては「わかりずらい」って思われるようなところもあって。僕は、アニメ版のほうも、すごく良かったですけど(笑)。
川村:アニメ版は原作者であるチャーリーさんが、ご自身で監督もされています。彼が何百人というアニメーターとの共同作業の中で、新しい表現を見出していった感覚が、ありました。夜明けの描写みたいなものに、すごくこだわりを持たれたり、原作には出てこなかった虹の表現とか。オールカラーのアニメーション映画にすることによって、作者自身の表現の発明がすごくあったんだと感じました。
――実は、今回のアニメ版を手掛かりに、お二人の「物語」に対する考え方を、お聞きしようと思っていたのですが……。
川村:僕は自分の会社に「STORY inc.」って名前をつけているぐらいだから、「物語」を中心に生きています。「物語」というのもまた、人間が発明したものだけど、どうして「物語」というものが求められたのだろうか、とよく考えます。もちろん、ストーリーテリングが自分の仕事だとは思っています。ただ、だからこそ音楽や絵画のような、直接的な「物語」ではない表現に対するあこがれがあったりします。
――なるほど、ややこしいですね(笑)。水野さんは、いかがですか?
水野:僕も、自分で小説を書き始めたくらいなので「物語」は大好きですけど、それに対する恐れみたいなものは、やっぱりずっとあって。さっきの「言葉」の話ではないですけど、聴き手が持っている「物語」を奪いたくないんですよね。なので、いつも何か……この原作もそうでしたけど、最後「おわり」ってあるところにバツがついていて、このあとも続いていくような感じになっているじゃないですか。要は、この前にも時間があって、この後ろにも時間があるっていう。「物語」というと、始まりと終わりがバチッと決まっていて、そこですべてが完結しているように思えてしまうけど、歌詞を書く場合は特に、そうやって何かを完結させるようなことは、なるべくしたくないなって思っています。
川村:確かに、最近ちょっと「音楽」が「物語」に近づきすぎている、と感じる時があります。本来、音楽というのは、すごくプリミティブなものだから、個人的には「物語」とは程よい距離を取っていてほしいなって思ったりもするんですけど。映像側というか、物語側の人間としては。むしろ、ちょっと意味不明なほうがいいというか、「意味不明だけど感覚的にわかる」みたいなものが、個人的には好きだったりもするので。
――水野さんは、どうですか?
水野:やっぱり、歌詞を考えるのって、結構大変なんですよね(笑)。特に、表に出ているアーティストの場合は、そのアーティストの成長物語というか、そのキャリアとしてのストーリーもできあがってしまうから。要は、歌詞を狭めるものが、どんどん増えてくるんですよね。それで、歌詞が書けなくなる人もいるだろうし、あるいは、新しい方向が見つかっているんだけど、これまでのストーリーを生きていくためには、あの言葉は使えない、この言葉は使っちゃいけないみたいなものがあったりして。
――ある種の「アーティスト主義」というか、曲も歌詞も、その人の内面から生まれるべきであるというプレッシャーもあるんですかね。歌謡曲が全盛だった頃とかは、作詞も作曲も歌唱も、基本的には分業制だったのに。
川村:それは映画業界についても、同じことが言えるかもしれません。昔は、小津安二郎だろうが、黒澤明だろうが溝口健二だろうが、必ずと言っていいほど一緒に組んでいる脚本家がいて。「複眼の映像」というぐらいで、橋本忍がいて、小国英雄がいて、黒澤明がいて……それで、映画『七人の侍』(1954年)ができているわけです。自己完結型では、なかなか世界的な傑作は生まれないというのは、昔の日本映画を観ると思ったりします。ひとりで作る事が「作家性」だと言い切ってしまうのは息苦しいと思うし、それは音楽の世界の人たちも、同じなのかもしれませんね。