村上春樹『街とその不確かな壁』に見る、老いの想像力 円堂都司昭 × 藤井勉 × 三宅香帆 鼎談

 村上春樹の6年ぶりとなる長編小説『街とその不確かな壁』(4月13日発売/新潮社)は、1980年『文學界』9月号に掲載された著者にとって三作目となる中編小説「街と、その不確かな壁」をもとにした作品だ。村上春樹が短編や中編をもとにして長編を書き上げることはよく知られているが、「街と、その不確かな壁」はすでに長編『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)に結実したと見られていたため、今作がどのような仕上がりとなるのかに注目が集まっていた。

 『街とその不確かな壁』について、村上春樹は「書き始めたのは20年春ごろで社会全体にコロナ禍の影響も大きかった。家に居ることが増え、自分の内面をみる傾向が強くなった。そろそろあれを書いてもいいんじゃないかと、引き出しの奥から引っ張り出してきた」(『日本経済新聞』2023年4月13日朝刊)と語っており、特に個人的な思い入れが深い作品と言えそうだが、そのキャリアにおいてはどのような位置付けになるのだろうか。

 文芸評論家の円堂都司昭氏、藤井勉氏、三宅香帆氏に、本作の感想を語ってもらった。(編集部)

過去作品をリメイクすることの是非

円堂:村上春樹の新刊のタイトルが『街とその不確かな壁』に決定したというニュースが出た際に、リアルサウンド ブックに幻の中編といわれる「街と、その不確かな壁」(1980年)についてのコメントを寄せました。(参考:「村上春樹」新刊発売間近、今読んでおくべき幻の中編『街とその不確かな壁』の魅力)その時点では、新作の『街とその不確かな壁』がここまで中編の内容に沿ったものになるとは予想していませんでした。というのも、すでにこの中編をとりこむ形で『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年)という傑作長編が書かれていたからです。

「壁」というキーワードでいうと、2009年にエルサレム賞を受賞した際の「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵側に立ちます」という有名なスピーチも思い出させます。そのため、90年代半ばのいわゆる「デタッチメントからコミットメントへ」という村上春樹の作風の変化を踏まえた、別の小説が仕上がってくると予想していました。だから、新作『街とその不確かな壁』を読んだ際は、あの中編をここまで踏襲したことに「そんなにこだわっていたんだ!」と驚きました。

藤井:2020年刊の最新短編集『一人称単数』から連なるテーマで書かれた作品でもあると思います。短編のアイデアをもとに長編を書くのは、これまでも村上春樹が行ってきた手法で、今回は「街と、その不確かな壁」を軸としながら、自分という存在の不確かさや二面性といったテーマをさらに深掘りしています。個人的に『一人称単数』は、ヤクルトスワローズファンとしての歴史を語るエッセイ風の話や架空のレコードにまつわる虚実入り混じった話など、物語の形式の自由さに面白みを感じていました。なので、そちらを長編に活かして欲しかったのですけど。「イエロー・サブマリン音頭」を聴きたかったのに、「イエロー・サブマリン」のオーケストラバージョンを聴かされたような印象というか(笑)。

三宅:『一人称単数』には、個人的に『ノルウェイの森』(1987年)などに近い手触りを感じていました。村上春樹はかつて、高校時代から大学時代ぐらいにかけての初恋の女の子を喪失する話を熱心に書いていたのですが、最近はあまりそういう作風ではなかった。でも『一人称単数』でその主題にグッと戻ってきた印象だったんです。『街と不確かな壁』は、もととなった中編も初恋の女の子を喪失する話だったと思うのですが、さらに直接的に描かれていたと思います。村上春樹は自分に残された時間と、自分の仕事をいかにして継承するのかを意識しているのかもしれませんが、若い頃に書いたものをリメイクするという手法が本当に相応しかったのかは、今日皆さんとお話ししたいところです。

円堂:『街とその不確かな壁』とタイトルはついているけど、それ以外の村上作品の要素もたくさん入っていますね。三宅さんの言うように、特に『ノルウェイの森』あたりの作品を思い起こさせる。また、村上春樹は初期の頃から「街」というモチーフにこだわりがあって、例えばデビュー作の『風の歌を聴け』(1979年)では「街は、僕の心にしっかりと根を下ろし、思い出のほとんどがそこに結びついている」という一文があって、今作に出てきても不思議ではないです。2作目の『1973年のピンボール』(1980年)の書き出しは「見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった」で、直子(村上春樹作品にたびたび登場する名前)から街の話を聞いているんですよね。この2作があって中編「街と、その不確かな壁」に至ったというのはよくわかります。

藤井:近年は父親について綴ったエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』を発表していますし、『一人称単数』の収録作は私小説のように読むこともできます。自分自身を掘り下げるのは、最近の村上春樹の傾向なのかもしれません。

三宅:文豪が最後に私小説に行き着くという傾向は、特に日本の作家ではよくあることなので、村上春樹もそうなりつつあるのかもしれないなと、今作を読みながら感じていました。本当に書きたいことはなにかを考えたときに、デビュー当時のことが気になってしまうというか。もしかしたらコロナの自粛期間で自宅待機しているときに、自分の過去作を読み直したのかも(笑)。家の整理とかしている人、多かったですし。

円堂:それこそ早稲田大学の「村上春樹ライブラリー」(=通称。正式名称は早稲田大学国際文学館)はコロナ禍の2021年にオープンしたじゃないですか。そこには自分が持っていた資料とかレコードを寄贈しているわけだから、実際にいろいろと整理はしていたと思います。ライブラリーに行くと書斎を再現したスペースもあって、村上春樹の生き霊がウロウロしているような想像をしてしまいます(笑)。

藤井:村上春樹の生霊を想像しながら読むと、『街とその不確かな壁』の味わいがまた変わってきそうですね(笑)。

村上春樹の「継承」とは

三宅:『街とその不確かな壁』に出てくるイエロー・サブマリンの少年は、一体なんだったんだろうと考えています。主人公の仕事を継承する存在だと思うんですけれど、自分が父親になるという話がすっ飛ばされて、急にイエロー・サブマリンの少年に全てを託すという展開になっているのが不思議だなと。

藤井:映画の『イエロー・サブマリン』と重なる要素が、作中で結構出てきますね。若返りとか別世界にいる自分のもう一つの人格など、特に「街」のパートは『イエロー・サブマリン』を下敷きに描かれているのかな? と思ってしまうぐらいでした。

円堂:小説の中でも触れられていますけれど、『イエロー・サブマリン』というアニメ映画の中では、ペパーランドという一種のユートピアが出てきます。そのペパーランドというユートピアと、壁に囲まれた街を重ね合わせているのでしょう。ペパーランドという呼称は、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』というアルバムから来ていて、このアルバムの曲は映画の中でもいくつか使われている。そして、『ノルウェイの森』では重要なシーンで『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に言及していました。主人公の僕と直子が一度だけ寝る直前に、部屋にあった6枚のレコードを繰り返し聴いていて、その中の一枚が『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』だった。やはり今作は『ノルウェイの森』との関連性を意識させようとしているように思えます。

藤井:「百パーセント」なんてフレーズも作中で出てきますしね。イエロー・サブマリンの少年が着てくるパーカーには、黄色い潜水艦の絵が描かれているものとは別に、ジェレミー・ヒラリー・ブーブ博士のイラストが描かれているものもあります。ジェレミー・ヒラリー・ブーブ博士の物識りで一人ぼっちの変わり者というキャラクターは、少年の境遇とも重なります。

円堂:イエロー・サブマリンの少年はサヴァン症候群らしき言動をみせ、人に生年月日を聞いて生まれた日の曜日を答えるという描写がありました。この描写を読んで、大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』を想起しました。同作では、障害のある息子が鳥の鳴き声を聞くと、即座に「センダイムシクイ、ですよ」などとその種類を答える描写があります。大江健三郎は他にも、父親と息子の年齢が逆転して、息子の方が知的になる『ピンチランナー調書』という小説も書いています。彼には実際に障害のある子どもがいて、いかにして継承するかを考えなければいけない切実さがあるけれど、村上春樹の場合は少年のイニシャルを「M」としていて、彼は村上春樹自身を指しているのではないかと思わせる節がある。図書館の館長という仕事は、元館長の子易さんから主人公が引き継ぐという形になっているけれど、村上春樹の実年齢に近いのは子易さんの方ですよね。そう考えると、村上春樹の分身同士で仕事を継承しているという風にも読めて、自分の中での堂々巡りを書いているような気もしてくる。新聞などで掲載されたインタビューでは「継承」を描いたと語っていましたが、いまいち釈然としないところがあります。

藤井:主人公とイエロー・サブマリンの少年の場合は継承するというよりも、仕事を奪われているようにも見えますけど。「夢読み」の仕事について少年の方が適性はあるようで、主人公は「私はもともと古い夢たちが語る物語をじゅうぶん理解できていたわけではなかった」と、身も蓋もないことを言っています。

円堂:少年と主人公の関係も、『海辺のカフカ』のようないわゆる「父殺し」の物語とまではいかないけれど、結果として父的存在の立場を奪っているので、そこら辺はこれまでのテーマの延長なのかなという気もしますね。

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