80年代の松田聖子と中森明菜はライバルだったのか 名伯楽・音楽プロデューサーが語る真相と素顔

 テレビがアイドルを作り、お茶の間に歌謡曲が流れない日はなかった80年代。

 華やかなショービジネスの裏側では、一流の作家陣がトップアイドルに曲を提供し、またそれを支える音楽プロデューサーの存在があった。40年以上に渡りビクターやソニーで、数々のアーティストを育ててきた川原伸司もまた、名伯楽と呼ぶに相応しい音楽プロデューサーのひとりだ。

■異能のアーティストを真摯にサポートする手腕とは

 ただ、川原が他と違っていたのは、レコード会社のしがらみにとらわれず、業界の孤児ともいえる異能のアーティストや作家陣たちと交流を深め、真摯にサポートしてきたことだ。

 ビートルズをはじめとした本物の音楽に触れることで見識を深め、自ら作曲も手掛けるという多才ぶりを発揮してきた川原。大瀧詠一や井上陽水の共同制作者となり、松本隆、筒美京平などの著名作家には常にアイデアやヒントを提供してきた。

 2022年8月に出版された川原の著書「ジョージ・マーティンになりたくて」(シンコーミュージック)では、そんな音楽的な素養はもちろん、アーティストをサポートする人心掌握の部分でも手腕を発揮した、その仕事術が赤裸々に語られている。

■明菜さんは聖子さんの大ファン

 興味深いのは、当書には80年代を代表する日本の2大アイドルとのかかわりも事細かに記されていること。松田聖子と中森明菜。お互い、ライバル関係にあったとされる2人ではあったが……

 「そのほうがメディア受けするからであって、実際にはライバルという関係ではなかったですよ。明菜さんは聖子さんの大ファンでしたしね」と川原。

 「松田聖子さんは、ミーイズム系アイドルの先駆けです。もちろん良い意味でね。それまでのアイドルは家族のため、あるいは友達が応募したついでに……などが主な動機だったでしょ。でも聖子さんは、自分自身アイドルが本当に好きでやっている。地元・久留米から上京してきて、ファンタジアの住人になりたい、という夢がはっきりとしていましたから」。

 川原が松田聖子とかかわるのは、1985年に彼女が神田正輝と結婚し、1年間の休養から復帰するという非常にセンシティブな局面。加えてその時期、これまでコンビを組んできた作詞家の松本隆は多忙を極め、聖子の曲はもうやりたくないと制作を拒否していた。

 「松本隆さんと聖子さんのコンビで連続オリコン1位を獲得してきましたけど、仕事としてのストレスが大きすぎるので松本さんもちょっと距離を置きたかったという理由もあるでしょう。そこで松本と仲の良い川原になんとかしてもらうと、僕に声がかかったわけです。とはいえ、僕は当時ビクター、聖子さんはソニー。レコード会社は違うんです(笑)」

 それでも川原は音楽業界のことを想い、松本隆の説得にかかる。

 「松田聖子さんは大変な才能の持ち主で音楽業界の財産。助けてほしいと言われたら、もちろん僕ができることはお手伝いしたい。そんな気持ちだったから松本隆さんも話に乗ってくれたんじゃないかな。大変な作業になるだろうけど、2人で一緒に火中の栗を拾おうよってね」

 トラブルを回避するために、川原はプロデュース権を取得することにも奔走。船頭が多く指揮が混迷しがちなビッグ・アイドルの作品を作るにあたって、「何よりも松本隆にすべてを決めさせてほしい」という取り決めをした川原は、やはりやり手だ。

  そんな経緯もあって1986年6月に発売された復帰作「SUPREME」は、松田聖子の作品の中で最も売れたアルバムとなった。

  ちなみに、そのアルバムの最後を飾る曲「瑠璃色の地球」は川原(別名:平井夏美)の作曲によるもの。シングルカットこそされなかったが、「赤いスイートピー」「SWEET MEMORIES」に次いで、リピート再生数が松田聖子史上第3位となっている名曲だ。

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