【伊集院静さんが好きすぎて。】気鋭の放送作家・澤井直人が語る「伊集院静さんと先生」

 私生活のすべてが伊集院静「脳」になってしまったという放送作家の澤井直人。彼がここまで伊集院静さんを愛すようになったのは、なぜなのか。伊集院静さんへの偏愛、日々の伊集院静的行動を今回もとことん綴るエッセイ。

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 伊集院静さんの人生を書籍から読み解いていくと、“多くの先生”が登場する。今回は、伊集院さんから学んだ『先生の流儀』を書かせて頂く。

 伊集院さんの書籍、『タダキ君、勉強してる?』 西山忠来少年はいかにして伊集院静になったのか?

 「今ここにいるのが、どうしてこういう自分なのか?それを決めてきたのは、やはり、その人たちとの出会いなのだと思えるのである。」 

 これまでの人生の中で出会った、“先生”を語ってくださるエッセイだ。

 今回は、特に伊集院さんの人生に大きく関わった2人の先生をご紹介する。

 一人目は、伊集院さんが高校時代に赴任してきた倫理担当の又野郁雄先生との出会いだ。

 ある日、先生の下宿部屋(酒屋の二階にあった)に住んでおられた先生の元へ行くと、タダキ少年は言葉を失った。『そこには本棚にぎっしりと詰まった文庫本で部屋が埋まっていた。』。ほとんどそれは哲学の本であり、京都立命館か同志社で学んだ京都学派の実にそれらしい部屋だった。

 そこからタダキ少年は……授業の中でも先生に心を掴まれていく。“全世界の、あらゆる民族は、我らが同胞である。” この思想は、タダキ少年の心を強く揺さぶる。ちょうど、自身のアイデンティティーの悩みを心に抱えていた時代である。

 在日二世として生まれたこと、育ってきたこと。これから生きていくうえでの困難のこと……しかし、世界中の人民が、実はひとつの市民であるというイデオロギーに触れ、目から厚い鱗が剥がれ落ちたような思いがしたという。

 高校3年間で実に沢山のことを又野先生から教わった。暇乞いのとき、先生は、高校生のタダキ少年に『自己実現』という言葉をボールに描いて贈った。(自己を実現することが、すなわち生きることである……と。)

 その後先生とは、高校を卒業後も夫人を通して書簡のやり取りを続けた。

 長い年月が経ったある日、伊集院さんの耳にある噂が届く。“その体調いよいよ芳しからず” 先生は病を得て、療養中だった。

 そんな先生に、伊集院さんは、50にして再び先生に学ぶ『個人教授』をお願いすることにした。「もう一度学ばせて下さい!」その申し出を先生は快く受けて下さった。

 退職後も、先生は自宅で哲学の勉強会を開いておられた。下は30代~上は50代まで向上心を持った男女が集っていた。濃密な学問の香気が溢れていた。

 30年ぶりにひとりの生徒に戻ったタダキ少年。先生はいつも和服を着て、居住まいを正し、私を待っておられた。正座をして先生と向かい合い、一例をして先生が手ずから作られた教科書を使った講義が始まる。

 後に夫人は地元のコラムにタダキ&又野先生のその様子をこう書いている。

『二人の学習は楽しげであった。そのくせ凜とした空気が流れていて、
私はお茶を出しながら、言葉を挟むことをはばかった。ここまで生き抜いた二人の男。己を信じ、おのれの力をたよりに闘い、燃え、道を開き続け、ここまで辿りついた二人。それ故にこそ、知った己の弱さや、哀しさ、みじめさ。
その罪さえも内に摑み得た「真理」の前に、頭を垂れて、素直に学んでいる。』
(※引用 防府日報連載「又野塾哲学ノート もう一度お互い 生徒に戻って
―忠来と郁雄―」)

 すべての学問は、人がよりよく生きるためにある。それが又野哲学の基本的な姿勢だった。

 自らの哲学を信じ、終生、人と共に学ぶことを貫かれた。見事な教師であり、人生だった。三十年を経て、再び学び合う師弟の姿は、輝かしい姿だ。

 もう一人の先生。それは、純文学作家であり、雀聖(じゃんせい)と呼ばれた無頼派作家・阿佐田哲也先生だ。

 伊集院さんは、色川先生と出会った頃、妻の死から立ち直れず、酒に溺れ、何の希望も見出せないまま、ただただ自堕落な日々を送っている、まさに人生の暗黒期だった。そのときに、漫画家の黒鉄ヒロシ先生のご厚意で知り合った。

 伊集院さんは色川先生に誘ってもらい、日本全国の旅打ち(※競輪や麻雀をしながら全国を回る旅)に連れて行ってもらうことになる。 (著書『いねむり先生』参照)

 旅の中で伊集院さんは、先生の不思議な魅力に惹かれていき次第に弱っていた心が回復していく。旅を重ねていく中で、色川先生との付き合いは深くなる。

 心身ともに荒み、周囲が小説執筆の再開を促しても、頑として書くことを拒否し続けていた伊集院さんにある日、先生は「もっと小説を書きなさいよ、伊集院君」と言った。
「書けません」そう返すと……「書けなくても、とにかく原稿用紙と鉛筆を持って、稽古をすればいい。ひとりでは書けないなら、相撲の申し合いみたいに、他の作家志望の人たちとどこかに集まって皆で稽古をすればいい。」とも言ってくれた。

  博打打ちにしては非常に現実的で建設的なアドバイスをもらいその後…伊集院さんは遵守した。

  そんな先生は、持病のナルコレプシーという病気と二人三脚していた。何時でも、所構わず眠気に襲われるこの病気。大量の汗をかき、苦しげな表情を浮かべる先生をそばで見ていると壮絶の一言だったという。苦しみの中からも絞り出して作品を生み出し続けた
色川先生の姿を思い出すと作家として、身が引き締まる思いがするという。

  ここには書ききれなかったが、同書には他にも数多くの先生が伊集院さんの前には現れている。そんな先生たちが、“人間”伊集院静、“作家”伊集院静を形成していったのであろう。

  私にも、学生時代に出会った忘れられないひとりの先生がいる。ラジオパーソナリティの『川村龍一』さんだ。

    1983年から2002年までは、平日の早朝に放送していた毎日放送ラジオの生ワイド番組『おはようMBS』(後に『おはよう川村龍一です』と改称)でメインパーソナリティを担当された方だ。阪神淡路大震災のときには、放送開始時間だった午前6時30分までに毎日放送本社のラジオスタジオへ到着できず、タクシーで移動しながら、当時ほとんど普及していなかった携帯電話を使って、道路周辺の被害状況を刻々と伝え続けた。

 「阪神高速道路神戸線の高架が倒壊した」という情報は、どこのメディアよりも早かったという伝説が残っている!(1995年度のギャラクシー賞 ラジオDJ・パーソナリティ賞を受賞)

  先生にはもうひとつの名前、『川村ひさし先生』がある。この名前を聞いたらピンとくる方がいるかもしれない。1969年~MBSで放送していた伝説の番組『ヤングおー!おー!』の司会などを担当された方なのだ。

  そんな先生と出会ったのは、まだ僕が20歳のときだった。放送作家のお仕事に興味を持ち始めていたときだった。ふわふわして固まっていなかった夢を先生は肯定してくださり、お部屋に、何度も呼んでくださった。

  そこで聞いた、ヤングおー!おー!に出演されていた蒼々たる名前の芸人さんたち
(桂三枝、明石家さんま、島田紳助、笑福亭鶴瓶、ザ・パンダ ※敬称略)との思い出話に目をキラキラさせていたのが記憶に新しい。

  そこから毎日のように先生の部屋に通った。恋愛話、テレビの話、お笑いの話、若者の話、実に多くの会話をさせていただいた。

  ある日、先生の部屋に行ったとき「澤井君、君は東京へ行くんだ。」いつもよりも声の質が違った。「大阪じゃなくて東京の方がいいんですか?」

 話を聞くと、先生も若い頃、東京で生活をしていた時代があるという。その頃、新宿の酒場で“数々の才能”と出会ったという。映画監督、俳優、経営者、ミュージシャン。その中には、誰もが知っている名前も多く並んでいた。同世代と酒を飲み交わし夢を語り合う時間は、川村先生にとって輝かしい時間だったという。同世代の才能が川村先生にとっての先生だったのだ。

先生はその一年後、彼女(現在の嫁さん)に大阪の梅田で誕生日を祝ってもらっている日
(2012年5月25日)に1キロもしない距離の事務所で倒れられた。それを聞いたのは翌日だった。先生は帰らぬ人となった。

 その翌年、私は上京した。先生の部屋に通い続けた時間がなければ今、東京で放送作家をやってる自分はないだろう。

 ふとしたときに先生と話したあの部屋の景色が蘇ってくる。先生との出会いで…人生は180度急転した。伊集院さんの周り眺めの良い人たちの話を読んでいると…「それは伊集院さんだから起こったことなんだ!」ということが分かってくる。

 私も、眺めのいい先生と出会っていけるよう、また誰かにとってのそれに(先生)なれるよう、 自分自身をもっと研磨していきたいと、襟を正す。

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