「白河の関」って何だ? 要塞として、文学用語として……移り変わる意味

第104回全国高等学校野球選手権大会が終わった。現高校3年生は高校生活3年間をコロナ禍と共にした学生たちだ。世間にはコロナで練習できなかった世代、などという論評もある。

阪神甲子園球場の外観(photolibrary)https://www.photolibrary.jp

 でも、そうはならないはずだ。彼らは野球ができる喜びを誰よりも知っている世代。必ず、野球人としても、そうでない世界でも、この世代は今年の夏空以上に輝いてくれる、そうなるだろうと信じている。

 さて、その選手権大会は東北、宮城県代表、仙台育英高校の優勝で終わった。勝利が決まった瞬間、「優勝旗が白河の関を越えた!」と連呼される。

「ああ、はじめて東北勢が優勝したんだ」

 この場合はそういう意味でいい。ただ、キーワードに引っかかる人も多いはず。「白河の関って、何なんだ?」 となる人もいるだろう。そこで、その白河の関について、少し説明してみよう。

 もともと、ヤマト政権というのは西日本の奈良だか、大阪だか、九州だか、その他どこかから勢力を広げてきた歴史がある。敵対勢力は根本的に東にあり、その方向の人たちを「蝦夷(えみし)」と呼んで、自分たちとは別の生活圏の人々としてきた。だから、彼らにとって、東北地方は別の国だったわけだ。

 そして、大宝律令の出された700年前後、ヤマト政権は「日本」という国へ脱皮しようとする。この「日本」という国号が使われるのも、ほぼ同時期だ。

 その律令国家はなるべく中国王朝を模倣した。その方が先進国っぽいからだ。だから、藤原京以降の都は中国風に碁盤のように仕切られた都城になり、法律である律令も唐などのものを模してアレンジした。

 すると、国の地理的把握にもそれは影響する。隋や唐といった中国王朝の北には異民族がいるもの。だから、万里の長城で防いだ。日本も同じように考える。東北には稲作文化と違う生き方をする蝦夷と呼ばれた人々がいる。そして、その北限が「白河の関(現、福島県白河市)」だった。当時、ここまでが日本という感覚があったのだろう。

 だが、中国王朝は長城という壁で防いだが、ヤマト政権=日本は違った。蝦夷の人々は縄文文化の継承者ともされる生活形態で、半狩猟、半農耕という生き方をしている。襲い奪うという概念も少なく、中国の騎馬民族のように侵攻してくることも少なかった。

 もちろん、それでもヤマト政権は蝦夷を敵とした。だから、征夷大将軍という将軍号も生まれる。後年、この将軍号は大きな意味を持つ。源頼朝も足利尊氏も徳川家康も、蝦夷を倒す将軍に就任したことになる。それが、日本という国のフォーマットになってしまったからだ。でも、最初期の頼朝の時代でさえ、倒すべき蝦夷はほぼいない。ヤマト政権は、同時に同化政策も進めていたからだ。蝦夷の人々とヤマト側の人たちの交流は深まり、北限は時代ごとに移っていく。

 白河の関が万里の長城のような軍事拠点であった時期は、極めて短かったとされる。源頼朝が征夷大将軍になる400年も前の、紀元800年前後、蝦夷の英雄、阿弖流為(アテルイ)が現れる。彼は当時の征夷大将軍、坂上田村麻呂と戦うが、主戦場は胆沢城(現、岩手県奥州市)だ。ヤマト側の北限は、そこまで変わっていたわけだ。

 すると、ずっと前に役割を終えた白河の関が、どこにあったのかさえ、わからなくなっていく。

 時代が移り、江戸時代になる。このとき、東北地方を叙情豊かに表す文学作品が出てくる。もちろん、1702年刊、松尾芭蕉の『奥の細道』だ。

山形県酒田市の日和山公園にある松尾芭蕉像


 白河の関という言葉に、再び命の鼓動が生まれた。

 こうなると、1800年、当時白川藩主だった松平定信が白河の関の場所を比定しようとする。彼は政治家であったが、文化にも強い造詣があった。

「白河神社のあるところが、そうだろうよ」

白河関跡の石碑が建つ白河神社


 そう決まった。定信はでたらめをやったのではない。戦後の発掘調査で、柵や土塁、数々の木簡などが出る。奈良時代の一時期、ここは文化の衝突と交流の地だったのだ。

 しかし、白河の関、という言葉が政治、軍事上に価値をもった時代は短い。でも、松尾芭蕉がその言葉を掘り起こし、松平定信が比定したことで、その言葉が東北を指す言葉としてよみがえる。

 そして、現代になる。野球というスポーツがやってくる。中でも、高校野球は各都道府県代表が出場し、それぞれの英雄のように扱われるようになる。

 スポーツなのだから、練習はたくさんできた方が強い。でも、東北の冬は寒い。雪も降る。日照時間も少ない。そんなハンデの中でも、球児たちは白球を追い、一生懸命、練習を続けた。

「いつか、白河の関を優勝旗が越えますように」

 願いが生まれる。

 けれども、何度も敗れた。大越基のいた仙台育英も、ダルビッシュ有のいた東北高も突破できなかった。いつの間にか、北海道の駒大苫小牧が強豪となり、優勝旗は白河の関を飛び越え、津軽海峡を越えた。

 「でも、白河の関を越えなきゃ」

 東日本大震災もあったのだ。祈りが生まれる。

 そして、今年、元気な野球小僧たちがそれを成し遂げた。もちろん、ただただ、彼ら高校生の成した勝利だ。ただ「おめでとう!」それだけでいい。

 けれども、もう、変なプレッシャーはなくなる。解かれたのだ。白河の関という言葉も、これを最後に、また、大きな意味を持たなくなるかもしれない。それも、生きとし生ける人々の歴史。

 だけど、ついでに知ってほしいこともある。白河には、実は「白河ラーメン」という、それはそれは澄んだスープで、何度も食べたくなるラーメン文化がある。老若男女、ほっこりと幸せになれるうまさだ。西国の人よ、一度はおいで。どの店も地元の人が大好物だと思ってほしい。だいたい、そこそこ混んでる。

 でも、白河の関という言葉を思い出しながら食べてみて。おいしいよ。

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