北条氏の家紋がミツウロコなのは? 江の島弁天のご利益が尽き滅亡 太平記はスゴイ物語

客観的な史実を悠に超える物語の力

 室町時代に生まれた『太平記』は、後醍醐天皇の吉野の朝廷(南朝)と京都の北朝の争乱を中心とする戦記物なのだが、現存流布本では全40巻にもなる長大な物語で、事は初代神武天皇の東征にまで溯る。江戸時代には「太平記読」(たいへいきよみ)と呼ばれる講釈師が語り、講談の元になった。今の講談でも一話を終える時に「これにて一巻の読み納めでござります」などと口上を述べるのは、その名残である。

 明治には近代歴史学の立場から『太平記』の物語は史実ではないと批判されるようになったが、天皇中心の皇国史観によって歴史を組み直した明治政府は『太平記』を大いに利用した。たとえば楠木正成は『太平記』の話に尾ひれをつけて「忠臣」として喧伝され、明治5年(1872)には自刃の地の湊川(兵庫県神戸市)に大楠公(楠木正成)をまつる湊川神社が創建された。

 これは、できるだけ客観的な史実を重視しようとする近代歴史学よりも、物語の力のほうが遥かに大きいことを表している。

頼朝の戦勝祈願のために祀られた江の島弁天

 その『太平記』巻第五「時政榎嶋(ときまさえのしま)に参籠(さんろう)の事(榎嶋弁才天の事)」に執権北条氏の盛衰の理由が記されている。

 ここに「時政」というのは北条時政(ほうじょうときまさ)、すなわち源頼朝の妻の政子の父である。

 「榎嶋」は神奈川県藤沢市江ノ島の弁財天(弁才天)のこと。八臂(はっぴ 8本の腕)の特異な姿の木造坐像である。

 鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』の養和二年(1182)四月五日の条に、この弁才天の由来が次のように記されている。

 この日、武衛(頼朝)は北条時政、和田義盛(わだよしもり)、三浦義連(みうらよしつら)らの御家人を従えて榎嶋に行った。高雄の文学上人(頼朝に挙兵を促した僧)が武衛の御願を祈るために大弁財天をこの島に勧請(分霊して祀ること)したてまつり、供養の法会を初めておこなったので、それに臨んだのである。

 『吾妻鏡』によれば、江の島弁天は頼朝の戦勝祈願のために祀られたということになる。それは頼朝の挙兵から2年後のことで、源平合戦のゆくえはまだ、どちらが勝つとも知れない頃のことだった。

江の島弁天の御利益が尽きたことが執権北条氏の滅亡へ

 『太平記』の「時政榎嶋に参籠の事」では、北条氏が九代目の得宗(とくそう 北条本家)の北条高時(ほうじょうたかとき)のときに滅ぼされてしまったのは江の島弁天のお告げのとおりだったと次のように語る。

 昔、鎌倉草創のはじめ、武家天下の北条四郎時政、榎嶋に参籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七(さんしち)日(二十一日目)に当たりける夜、赤き袴に柳裏(やなぎうら 表が白、裏が青)の衣着たる女房(宮女)の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来たつて、告げていはく、「汝が前生(ぜんしょう 前世)は箱根法師(箱根権現の僧)なり。六十六部の法華経(別注)を書写して、六十六箇国(全国)の霊地に奉納したりし善根(前世の善行)によつて、再びこの土(ど 現世の日本)に生るる事を得たり。されば子孫永く日本の主(あるじ)と成つて、栄花に誇るべし。ただしその振舞ひ違(たが)ふ所(道理にそむくこと)あらば、七代を過ぐべからず。わが言ふ所不審あらば、国々に納めしところの霊地を見よ」と言ひ捨てて帰りたまふ。

 その姿を見れば、たちまち長さ二十丈ばかりなる大蛇になって海中に入り、大きな鱗が3つ残していった。時政は、お告げを喜んで、この三つ鱗を旗の紋にした。

 その後、六十六箇国の霊地に人を遣わして法華経を納めたというところを見させると、経の奉納箱に「時政」の名が書かれていた。

 されば今、高時は七代を超えて九代になった。榎嶋弁天の御利益も減じて亡ぶべき時になり、「かかる不思議の振舞ひをもさせられけるか」と思われた。

 高時は残酷な遊びを好むなど、理解しがたい行動がいろいろあったという。そうして北条氏が高時の代で滅んだのは江の島弁天の御利益が尽きたからだと『太平記』は語る。

北条氏の家紋「三つ鱗」(みつうろこ)

 北条氏の繁栄を告げた江の島弁天の化身の大蛇が海に3枚の鱗を落としていったので、初祖の北条時政が家紋に定めたと伝える。

閻魔大王にも許される写経がルーツの六十六部廻国の旅

江戸時代の六十六部廻国の巡礼者

 法華経にまつわる霊験譚(神仏の不思議な話)は非常に多く伝わり、平安時代には写経しておくと地獄の閻魔大王にも許されるといった話が広まった。

 『太平記』に「六十六部の法華経を書写して、六十六箇国(全国)の霊地に奉納した」というのは六十六部廻国巡礼の始まりとされるが、古くは平安時代の『大日本国法華経験記(げんき)』第六十八話に行空(ぎょうくう)という僧が「法華経一部を持って五畿七道に行かざる道なく、日本六十余国に見ざる国はなかった。一生に誦する部数は三十余万部である。臨終には普賢菩薩が頭をなで、文殊菩薩が守護して浄土に往生した」という話がある。

 江戸時代に六十六部廻国が盛んになるが、八巻もある法華経を六十六部も書写するのは容易ではない。法華経一部を持って諸国の霊場を巡礼したものだろう。

 現在、霊感スポット参り、札所巡りなどが盛んだが、昔の巡礼は命がけでもあり、今では想像もつかない熱意である。それが思わぬ事態を生んだこともある。

 江戸時代の末頃、子どもと毬つきをして遊んだことで有名な良寛は、越後出雲崎(新潟県出雲崎町)の豪商の長男だった。じつは良寛が生まれる前の当主が六十六部の行者になって出奔したため、後に入った聟の子である。それがなければ良寛は生まれなかったのだが、長男なのに商家を嗣ぐことを嫌い、出家した。なんとなく因縁めいた話である。

 

山下宏明校注『太平記 一』新潮日本古典文学集成(新装版)新潮社刊

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