書物という名のウイルス 第14回

新しい老年のモデル――デイヴィッド・ホックニー&マーティン・ゲイフォード『春はまた巡る』評

月並みな美のもつ「尋常な魅力」

 こうして、ノルマンディーのホックニーはデジタルな絵画にも「徴」を張り巡らせる一方、その画題についてはむしろ月並みなものを選んでいる。例えば、雨の跳ね返り、水面の波紋、窓から見える月明かり、庭に立つ樹木――たったそれだけのことなのだが、彼の「手」にかかると、それら一つ一つが慎ましやかな奇跡のように思えてくる。絵画的な徴が、どこの道端にも見られるありふれた出来事から引き出されているのだ。

 ちょっと突飛なようだが、私がここで連想するのは谷崎潤一郎の『細雪』である。かつて小林秀雄は『細雪』について「極く当り前な美の形ばかりが意識して丹念に集められ、慎重に忍耐強く構成された作は「細雪」が、初めてであろうと思われる」(「年齢」『小林秀雄全作品』第18巻所収)と評した。小林が言うように、『細雪』のディテールは平凡で「月並み」だが(魚と言えば鯛、花と言えば桜というように)、それゆえに読者は疑念や不安を抱くことなく、そのすべてを「安心し切った気持ち」で受け入れる。『細雪』には月並みな美のもつ「尋常な魅力」が充溢していた。

 『細雪』の示す平凡なものの非凡さは、今のホックニーの絵にも当てはまる。そこには高度な絵画技法が駆使されているが、われわれはそれをわざとらしい作り物とは見ないだろう。誰もが知っている「当り前の美」が、ホックニーの「手」によって明朗かつ持続的な生の形を与えられる。しかも、『細雪』を書いた時期の谷崎よりも遥かに年上の、今や80歳を超えた老人が自然の「万物流転」のさまを切り取って、鮮やかなイメージに変換し続けているのだ(ちなみに、本書には鴨長明や葛飾北斎への言及もある)。

 しかも、その際に、ホックニーはカンヴァスの形状にも大胆に働きかけ、絵画=窓というモデルを分割する。ロシアの異形の思想家パーヴェル・フロレンスキイの「逆遠近法」の理論(日本語訳もある)にも触発されつつ、ホックニーの近作はしばしば四角形のフレームワークからの脱却を試みている。例えば、六枚の変形カンヴァスを用いた《ホッベマによるオランダの背の高い木(有用な知識)》は、カンヴァスの角を切り落とすことによって、観客を絵に引き込む効果を生んでいた。こうして、ホックニーの絵画は、古くて新しい技術を(まさに春が巡るように)たえず訪れさせる、一種のメタメディアのような様相を呈するだろう。

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