書物という名のウイルス 第7回

感覚の気候変動――古井由吉『われもまた天に』評

未完結性ゆえに、古井由吉は常に新しい作家

 もともと、古井の文学には「群れの政治学」とでも呼べる一面があった。初期の『円陣を組む女たち』や『男たちの円居』では、個体が群れになった途端、新たな欲望や行動様式によって動き出すさまが描かれる。古井には、「女」(男)と「女たち」(男たち)を別の生き物として認識しようとする、鋭い洞察があった。しかも、個体の感覚は、群れの感覚によってたやすくハイジャックされてしまうのだ。この《群れに横切られた自我》の発見は、インターネット時代にも通じる古井の先見性をよく示している。

 そう考えると、本書に収められた未完の遺稿が「自分が何処の何者であるかは、先祖たちに起こった厄災を我身内に負うことではないのか」という一文で終わっているのは、意味深長である。古井は群れの概念を「先祖」にまで拡大した。しかも、その先祖たちを見舞ったカオス的な「厄災」は、感覚の亡霊となってわれわれに引き継がれているのである。

 古井の小説は一見して静謐であり、その語り手は孤独で思弁的である。古井自身には妻がいたが、本作の語り手はまるで独身者のように生活している(それゆえ「妻はどこにいるのか」という本連載第一回で立てた問いは、古井の小説にとっても無縁ではない)。この独身者は、静けさのなかに破局の予兆を招き寄せずにはいられない。古井が示すのは、《感覚の気候変動》にさらされた荒涼とした地平こそが、認識の腐葉土になり得るということである。

 何にせよ、古井は中身のない技法を誇示するマニエリストではない。東京大空襲を生き延びた古井にとって、天下大乱のカオスをがっしりと受け止められるだけの、精密で粘りのある文体をどう組織するかが、現代文学に課せられた使命であった。その探索が完結することはあり得ない。それゆえ、本書に限らず、古井のすべての作品が「未完の遺稿」なのである。この未完結性ゆえに、古井由吉は常に新しい作家として、今後も読み継がれるだろう。

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