『鬼滅の刃』遊郭編の最大の見どころは? 根底に流れる主題から考察

※本稿には『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)の内容について触れている箇所がございます。同作を未読の方はご注意ください。(筆者)

 2021年12月5日から、フジテレビ系列にて、テレビアニメ『鬼滅の刃』「遊郭編」の放送が始まる。

 今回の舞台は、男と女の欲望うずまく夜の遊郭。炭治郎、襧豆子、善逸、伊之助の主要キャラ4人と、“音柱”の宇髄天元が、“上弦の陸”と呼ばれる凶悪な鬼と妖しき色里で死闘を繰り広げる。

 そこで本稿では、私が常々考えているこの「遊郭編」のテーマについて書いてみたいと思う。いや、それはもしかしたら「遊郭編」に限らず、吾峠呼世晴の作品すべてに通底するテーマだと言っていいかもしれない。

 ではその吾峠呼世晴の作品に通底するテーマとはいったい何か。それは、ひと言で言えば、「人間と怪物の境界線を超えた者と、超えなかった者との戦い」である。

吾峠呼世晴の初期作品に共通するヒーロー像とは?

 「処女作にはその作家のすべてがある」とはよく言われることだが、たしかに『吾峠呼世晴作品集』に収録されている初期短編4作を見てみると、おのずとこの漫画家が描きたいテーマというものがぼんやりと浮かび上がってくるだろう。

 収録されているのは、「過狩り狩り」(『鬼滅の刃』の原型的作品)、「文殊史郎兄弟」、「肋骨さん」、「蠅庭のジグザグ」の4作だが、いずれも、先に述べたような「人間と怪物の境界線を超えた者と、超えなかった者との戦い」が描かれている。

 興味深いのは後者の存在であり、怪物を退治する正義のヒーローである彼らもまた、いつ“向こう側”に行ってもおかしくないような、“悪”の要素を身の内に隠し持っているのだ。むろん、毒をもって毒を制すというか、そうしたダークヒーローだからこそ、魔性のものを“狩る”ことができるのだという考え方もあるだろうが、だからと言って、彼らがその“一線”を超えることはない。

 それはなぜか。それは、彼らが、人知を超えた魔性の力を手に入れてもなお、“人の心”を失ってはいないからである。そしてこの考え方は、そのまま吾峠呼世晴の初の長編作である『鬼滅の刃』にも受け継がれていく。

『鬼滅の刃』とは鬼と鬼が戦う物語

 『鬼滅の刃』における「敵と味方の構図」をひと言で説明すれば、それは、「血鬼術を使える鬼」と「呼吸法を使える鬼」との戦い、ということになるだろう。後者を「鬼」扱いすることに抵抗をおぼえる向きもおられるかもしれないが、広義の「オニ」とは、「特殊な力を持った者(異能者)」のことであり、ならば、「呼吸法」と「日輪刀」(という魔性の剣)を操ることができる鬼殺隊の剣士たちもまた、ある種の鬼だと言えなくはないのである。

 さらに言えば、彼らの多くは、かつて鬼に家族を殺された辛い経験から、いつ闇の世界に堕ちてもおかしくはない“負の感情”を秘めてもいる。それでも彼らがその忌まわしい過去に押し潰されることなく、日々の厳しい鍛錬に耐え、鬼と戦う異能を高めるために努力しているのは、人を守るためにあくまでも人でありたいと願っているからだろう(第82話では、「怒りという感情だけで勝てるのならば もうこの世に 鬼は存在していないだろう」というナレーションも入る)。

 そしてその願いが、いちばん色濃く描かれているのが、「無限列車編」を経たあとの「遊郭編」ではないかと私は思っている。

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