『怪獣自衛隊』と『怪獣8号』大ヒット怪獣漫画2作の異なる魅力を考察 それぞれが描くヒーローのあり方とは?
かつて、怪獣が出てくる映画や漫画などにおいて、「自衛隊」の存在は単なる“引き立て役”のようなものであった。つまり、いわゆる“正義の味方”――遠い宇宙からやってきたヒーローや、人類を守ってくれる側の怪獣や、天才科学者が発明した超科学兵器などの力を際だたせるために、物語の序盤で、悪しき怪獣に戦いを挑むもまったく歯が立たない――というのが、自衛隊の戦闘機や艦艇に与えられた“役目”だったのである。
それが、少しずつ変わっていったのは、80年代の末頃からだったろうか。次第に“怪獣物”の作品にもリアリズムが取り入れられていき、それに伴い、自衛隊の描かれ方も、それまでとはずいぶん違うものになっていったように思える。
自衛隊のイメージを変えた作品
ところが、この衾に止めを刺すのは、異能を持った潮でもとらでもなく、スクランブル(緊急発進)でその場に現れた――それまでの怪獣物では“効かない兵器”の代名詞だった――自衛隊の戦闘機が放ったミサイルなのである。
『うしおととら』の連載当時、リアルタイムでこれを読んで、かなり驚いたのをいまでも覚えている。なぜならばそれは、従来のファンタジー漫画の法則を大きく覆すものだったからだ。
だが、藤田の漫画をよく読めば、超能力を持った選ばれしヒーローだけでなく、「普通の人」たちでも、がんばれば怪異に勝てるという描写が繰り返し挿入されていることがわかるだろう。とりわけこの、超自然的な存在であるはずの妖怪が自衛隊の通常兵器で退治されるという描写は、そんな藤田の漫画のテーマとリアリズムを、もっともダイナミックな形で見せてくれているといっていい。
さて、前置きがやや長くなってしまったが、今回とり上げたいのは、井上淳哉の『怪獣自衛隊』である。
※ 以下、ネタバレ注意
タイトルからもわかるように、同作で描かれているのは、怪獣と戦う自衛官たちの姿だ。主人公の名は、防人(さきもり)このえ。防衛大学校を卒業したばかりの彼女は、春休みに祖母とクルーズ船での旅を楽しんでいたのだが、突然、人間を捕食する謎の巨大生物(=怪獣)に襲われてしまう。
だが、新米の自衛官ながら彼女は、かつて自分を救ってくれたある自衛官のようになりたいという夢を原動力にして、ボロボロに傷つきながらも、船に乗っていた多くの人々を守る。一方、“もうひとりの主人公”ともいうべき海上自衛隊の大和令和もその場にかけつけ、最終的には彼が放った魚雷がその場にいた人々の運命を決めるのだった……。
すごい物語だ。ちなみにここまでの描写は、内容的にはいわばプロローグといっていいようなものだろうが、単行本にして2冊半ものページ数が費やされている。つまり、このえたちが巻き込まれたクルーズ船の“悲劇”を経て、「防衛省特殊災害対策室〈TaPs〉」――俗称「怪獣自衛隊」が設立されるという展開になるのだが、作者がこのそう短いとはいえないプロローグで本当に描きたかったのは、主役のふたりが巨大生物相手に奮闘する姿ではないだろう。
そう――先ほど藤田和日郎の漫画では、普通の人たちでもがんばれば怪異に打ち勝つことができるのだと書いたが、井上淳哉もまた、それと同じようなことをこの『怪獣自衛隊』で伝えようとしているのではないだろうか。具体的にいえば、最初は怪獣に怯えたり、自分勝手な行動をしたりしていた人々が、このえのがんばりを見て、ひとつになっていく。そして、自らの命を犠牲にしてでも、誰かを守るために立ち上がっていく。これこそが、人間の持つ本当の強さだといっていいだろう(実際、3巻でこのえ自身も、あの時、船にいた乗客と船員たちが一丸となって戦ってくれたからこそ、危機を乗り越えられたのだと振り返っている)。
これは、結果的には同じことを描いている、といえなくもないのだが、物語の切り口としては、正反対のものだといっていいだろう。どちらがいいとか悪いとかではなく、目の前の脅威に対する、組織、個人、そして、ヒーローのあり方に対する作者ふたりの考え方の違いがわかり、興味深い(たとえば、前者の主人公が物語を通してなすべきことは“成長”だが、後者の場合はある種の“リベンジ”である)。