『双亡亭壊すべし』、なぜ“普通の人々”が活躍? 藤田和日郎が表現し続けてきた「作者と読者」の関係性
実際、作者自身も、この緑朗を、タコハと青一(身体の一部をドリルに変形させることのできる少年)に次ぐ、「第三の主人公」として設定しているはずであり、それは、同作の終盤で、あるキャラクターが彼にいう、「緑朗…お前はいつでもこの〈双亡亭〉の鑑賞者だった。(中略)自分を誇れ」というセリフからもわかるだろう。
つまりこの、「自分を誇れ」という言葉には、「鑑賞者」=「読者」に対する作者からの感謝の気持ちが集約されているといっていい。前作の『月光条例』という作品もまた、藤田ならではの「作者と読者」の関係を問うたメタ・フィクションの傑作だったが、この『双亡亭壊すべし』では、それよりもさらに突き抜けたかたちで、「物語は読者とともに作り上げるもの」という作者の持論が強く打ち出されている。その象徴が、緑朗という少年なのだ。
前述の呪われた画家――坂巻泥努はこんなことをいう。「『絵』も…人間も…見られることのなくなった者は、滅びるしかないのだ…」
漫画も同じだ。だからこそ、作者にとって鑑賞者=読者とは、何よりも大事な存在なのである。そのことを人一倍わかっているからこそ、藤田和日郎の漫画では、読者と近い立場の「普通の人々」が活躍するわけだし、また、彼らの力が物語を大きく動かしていくのだろう。
そう、呪われた双亡亭を壊したのは、ある意味では我々読者の力でもあったのだ。
■書籍情報
『双亡亭壊すべし(25)』
藤田和日郎 著
定価:550円(税込)
出版社:小学館