名著の力 第1回:円堂都司昭の三島由紀夫『仮面の告白』評
三島由紀夫『仮面の告白』を今読むべき理由 戦後文学を代表する傑作私小説の多層性
時代を超えて“名著”と呼ばれる文学作品の中から、いま改めて読み直したい作品を選書し、気鋭の評論家/作家がその現代的な価値を再発見する新リレー連載「名著の力」。第1回は、文芸評論家の円堂都司昭が、三島由紀夫『仮面の告白』を再読。第165回芥川賞候補にもなっている千葉雅也『オーバーヒート』との比較や、いまやポピュラーなカルチャーとなったBL(ボーイズラブ)の黎明期における同著の位置付けから、読書家を魅了し続ける三島の“欲求”のあり方を紐解いた。(編集部)
『仮面の告白』と『オーバーヒート』
昨年は没後50年となった三島由紀夫の特集が各種媒体で組まれ、昭和を代表するこの特異な作家が再注目された。なかでも、ドキュメンタリー映画『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』の公開は、興味深かった。1969年当時、民兵組織「楯の会」を結成して自衛隊に体験入隊するなど右翼の代表と化していた三島が、安田講堂占拠事件で左翼学生運動の代表格となっていた東大全共闘と討論会を行ったのだ。1,000人以上の学生を前に、ボディビルで鍛えた肉体で弁舌をふるう作家は堂々としていた。翌1970年、彼は「楯の会」メンバーとともに陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、自衛隊員にクーデターを呼びかける演説をした後、割腹自殺した。享年45歳。
しかし、1949年に三島が24歳で発表した初期の傑作『仮面の告白』は、後年のマッチョなイメージとは違っていたのだ。自伝的な内容の同作の主人公「私」は、病弱である。自身が生まれた時の光景を記憶していると主張する彼は幼少時、祖母に育てられる。糞尿汲取人の若者、騎士の軍装を絵本で見て最初は女性と思わなかったジャンヌ・ダルク、汗の匂いがする兵士。そういった人たちに魅かれるうち、自分は同性を愛する者なのだと意識するようになっていく。
頭の上で縛られた手首が交叉され、裸の上半身に矢が刺さった殉教者「聖セバスチャン」の絵を見て13歳で「悪習」(自慰)を覚えた。級友で腋に豊かな毛を生やした近江に恋をした。だが、筋肉質な若者が血を流し死んでゆく姿を夢想して喜びを感じる一方、鏡のなかには細い肩、薄い胸のひ弱な裸しか見出せない。やがて主人公は、自分の性的指向を隠したまま、友人の草野の妹・園子と恋人のような交際を始める。そうした性や恋愛への目覚めと挫折が、戦中から戦後にかけて描かれるのだ。
男性同性愛者を描いた小説といえば、最近では千葉雅也『オーバーヒート』があった。作者を思わせる人物が主人公である点は、『仮面の告白』と共通する。主人公には特定の彼氏がいるが、ウリ専を利用することもある。また、ツイッターで「#LGBTは普通」というハッシュタグの流れに当事者として逆らう発言をして「逆張り」だと批判され、苛立つ展開もある。これに対し『仮面の告白』の「私」は、夢想はするにしても現実に同性と肉体関係を持つ手軽な手段を知らないし、今とは違い性的指向の多様性について公に議論することなど想像できなかった社会環境だ。時代の変化が二作の違いにあらわれている。
『オーバーヒート』では、行きつけのバーの女性から「私のことちょっと好きだったでしょ」と勘違いした言葉がささやかれ、周囲の人々は結婚していくが男同士は結婚できないといった話題が出てくるものの、それらは主人公をとり巻く様々な事象の一部にすぎない。
同性愛へのタブー視がもっと強かった頃に書かれた『仮面の告白』では、主題である同性愛はむしろ願望の領域として書かれ、物語後半では女性との勘違いを含んだ交際、結婚するのが普通だという常識の圧力がせり出していた。
病弱な「私」にも召集令状はきたが、軍医の誤診により徴兵を免れた。その後、疎開先の園子との文通が続き、彼女からの好意を感じながら接吻するに至る。それは、自分も女性を愛せるのだと己に証明するためのような行為でもあったが、逆に相手を愛せないと思い知ることになってしまう。園子も彼女の家族も、親しくなった2人は当然、結婚するのだろうと思っているのに、彼は逃げることを考えざるをえない。
「私」は戦争によって死ぬことで園子との難しい関係が解決されると信じていたし、巨大な爆弾に殺されることを願ってさえいた。そのことについて「私はたまたま原子爆弾を予見していたことになろうか」と、後の時代の言葉でいえば“中2病”的な回想までしている。だが、彼に死は訪れず、戦争が終わった時、「日常生活」が始まることを怖ろしく思う。
真実の愛の触れあいによって呪いが解け、野獣が人間の王子の姿に戻り美女と結婚して、めでたしめでたしとなる『美女と野獣』の結末とは、反対の内容だ。『仮面の告白』では小説の半ばで「私」が園子と接吻した結果、この愛は真実ではないと自覚し、結婚の不可能がはっきりする。2人の関係はどうなるか、主人公は自分の性的指向とどうむきあうかが、物語後半の焦点となる。彼は、女性を愛せる自分でありたかった。いいかえれば、恋に恋するのと似た状態だったのだ。しかし、「お前は人間ならぬ何か奇妙に悲しい生物(いきもの)だ」と、彼の苦しみは告げることになる。