『ババヤガの夜』王谷晶×『 マイ・ブロークン・マリコ』平庫ワカ 特別対談:エンタメ作品で“シスターフッド”を描く意義

「男対女」みたいな話を描きたかったわけではない

――『ババヤガの夜』も『マイ・ブロークン・マリコ』も、理不尽な支配を受ける女とそこに対して暴れる女、そして敵となる男と男女の分断をギリギリでつなぐ中立的な男……と、キャラクター構造が近い部分がありますね。

王谷:はい、『ババヤガの夜』に出てくる人は、わかりやすいキャラクターになっていますが、ちょっと薄めれば身の回りにもいるよねっていうタイプでもあると思っています。私は『マイ・ブロークン・マリコ』に出てくる、海辺で出会う釣り人の男性キャラクターが好きなんですよ。重い過去を抱えていて、シイちゃんのことも引いて見てるんですけど、それでも小さな希望になっている感じが。

『 ©平庫ワカ(KADOKAWA)2020『マイ・ブロークン・マリコ』

平庫:実は私の身近にも虐待サバイバーがいるので、その話を聞いていたときに「自分は何もできないな」と、シイちゃんと同じような気持ちがずっとあったんです。それが抱えきれなくなって、どうにかしないとって吐き出したような作品なんですよね。あの釣り人の男性にもモデルがいるのですが、挫折を味わった人の柔らかさというか、そういうのがある男性は身の回りにもいっぱいいるじゃないですか。マリコの親父が本当にクソ野郎なので、読んでいる女性に向けて「こういう人もいるよ」と、男性という存在のバランスを取りたかったのと、逆に男性に対しても、「弱さをもったままでいい」ということを言いたかったのかもしれません。

――『ババヤガの夜』では、柳のポジションがそれにあたりますね。

王谷:そうですね。彼には、私の父が重なっていたのかもしれません。社会に出てみて「うちの親父は割とマシだったな」って思ったことがあって。体育会系でしたし、別にパーフェクトなタイプでもないんですが、強いとされる男性の中にも、物理的な強さを相手に振るうタイプと、それを優しさに変換できるタイプと、大きく2種類いるのかも、と思わせてくれる存在でした。柳はヤクザですし全然いい人ではないんですよ。今回はヤクザをロマンチックに書くのはやめようと気をつけていたので。でも、そもそも人間って誰でもいい人な部分とクソな部分は持っているから。その割合が何かの拍子で揺れることもあると思って。

平庫:その場、その場でその人なりの心に従うものですよね。やっぱり人と関わっていくと、人の判断も変わっていくから。柳には「こういうものだよな、人って……」という人間臭さが見られて、すごく好きでした。

――女性が困っていて、そこに理解のある男性キャラクターが出てきたら、かつては救い出してくれるのがお決まりの流れだったように思います。でも、この2作品はそうはなりませんね。

平庫:もー、そうしたら、全部台無しですから! 男についていけば解決するという時代は終わったんです(笑)。

王谷:そうですね。今までの歴史を見ていても、それで解決した人がどれほどいるのかと思うわけですよ。もう同じ轍を踏むわけにはいかない(笑)!

――先ほど平庫さんにはシイちゃんとリンクした怒りが実際にありましたが、王谷さんの作品にも身近な怒りが影響していますか?

王谷:新道と私は全く違う人間ですし、環境的にも全く違うんですが、この社会で女と見なされて生きていくことへのフラストレーションを「腕力で叩き潰すことができたらな」とは何百回も考えたことがあります。「ああ、この瞬間、私がドウェイン・ジョンソンでさえあったら! あの筋肉さえあれば!!」みたいな(笑)。そういう広い意味で「女」に生まれた煩わしさは、きっと誰もが抱えていて、それを暴力では解決できないかもしれないけれど、暴れてくれる女がいる作品を書いてみたいなと思いました。

平庫:私、新道に生理がくるシーンがすごい好きなんですよ。「ちゃんと新道にも生理きてる!」って思いました。あの期間って、なかなか描かれないじゃないですか。

王谷:そうですよね。作品内の時間が1ヶ月以上流れているのに、生理の「せ」の字も出てこないフィクションにはしたくなかった。だいたいの成人女性が、1ヶ月のうちの1週間は、人によってはそれ以上もわずらわされているわけじゃないですか。女を書く以上、そこを無視するわけにもいかない。かといって、ことさら何か意味を持たせるのも嫌で。新道はアスリート的なメンタルがあるので、自分の体調を常に把握しているという意味でも、生理は生理、日常ルーティーンとして書かねば、と。

「なんでつながり続けているのか」全然わからない関係性

――シイちゃんとマリコ、新道と尚子のお互いをちょっと「めんどくさい女」とドライな目で見ているところも印象的でした。

王谷:実際、長く付き合いのある女友だちって、「こいつめんどくさいな」っていう部分も把握していますよね。それも承知でつるんでいるというか。友だちほど「どこが好き」って言えない関係もないかなって思うんですよね。そういう意味では、よっぽど恋人のほうが明確に選んでいるというか……。でも、腐れ縁みたいな友だちとかネット上で10年以上フォローしてる人とか、「なんでつながり続けているのか」って聞かれると、全然わからない(笑)。

平庫:そうですよね。私は友だちって、家族とかと同じくらい「選べない」存在なのかなって思うようになっていて。本質的には一緒にいる明確な理由なんてなくて。気づいたら一緒にいる、みたいな。インタビューで「シイちゃんはマリコのことが恋愛的に好きだったんですか?」って何回か聞かれたことがあるんですが、きっとそういう面もあるかもしれないし、そういう面だけでもなかったんじゃないか、と。人間の感情って、結局グラデーションなので。

©平庫ワカ(KADOKAWA)2020『マイ・ブロークン・マリコ』

――ネット上でのつながりのお話がありましたが、SNSを通じて痛みや怒りを分かち合い、直接に会わずとも育まれる絆は、かつて「友情」の概念とはまた異なる感覚ですよね。

平庫:王谷さんがブレイディみかこさんと対談された『覚醒するシスターフッド』で「SNSで女の人が意見を出やすくなった」とおっしゃっているのを読んで、「そうなのかもな」と思いました。SNSで自分の意見をかみしめるというか、「これってこういうことでいいんだよね?」「怒っていいんだよね?」「これおかしいよね?」と確認し合える輪ができつつあって。よくも悪くもだとは思うんですけど、そういう基盤ができてきたから『ババヤガの夜』とか『マイ・ブロークン・マリコ』とか、シスターフッド的なものがエンターテイメントとして受け入れられるようになったのかなと、少し思ったりもしました。

王谷:それはあると思いますね。多分、『ババヤガ』もその前の本も、5年、10年前だったら、企画そのものがおそらく通っていなかったと思うので。このSNS文化が出てはじめて、殴られる心配なしに自分の意見が言えるようになった。それは女の人だけじゃなくて、差別を受ける弱い立場にあるすべての人に通じますが。インターネットは悪いところもいっぱいあるけど、その1点に関してはすごく大きいものだと思っています。

「喧嘩はやめて」じゃなくて、面白さで殴り合え!

――以前に比べたら声が上がりやすくはなっているんですけど、一方で埋まらない力の差というのはたしかにありますよね。争うことなく対等にやっていくというのが理想的ではあるんですけど……。

平庫:「男女平等」って言っても、身体性が決定的に違いますからね。どっちかに合わせるとかという話じゃなくて、相互理解するために戦わなくちゃいけない(笑)。男女だけじゃなく、マジョリティーとマイノリティーとかもそうですけど、誰かが作ってくれるものではないので、勝ち取っていくしかないと思うんですよ。

王谷:その都度、小さなバチバチをし合いながら、ちょっとずついいほうに向かっていくしかないんじゃないかなと。「喧嘩はやめて」じゃなくて、面白さで殴っていこうと(笑)。面白さで殴られたら、人はなかなか抗いにくいと思うので。

平庫:それですね! 言いたいことがあればあるときほど、エンターテイメントにしていかなきゃいけない。面白ければ強者も意識を向けずにはいられない、そんな作品を作っていかないといけないんだなって、最近思います。

――最近は、ぶつかり合うよりも器用に避けていくほうがスマートな傾向にありますが、その結果言いにくさばかりが増長されたようにも感じます。

王谷:結局もっと陰湿な、それこそSNSで匿名攻撃みたいなものが増えたような気がします。私自身も、もっとちゃんと喧嘩していけばよかったな、昔を振り返って思うところもあるんですよ。もともといろんなことを受け流すのが得意なタイプだったんですけど、20代半ばくらいで心身がガタっときてしまって。5年くらい引きこもって暮らしていたんです。そしたら、頭の中の絶望感が腐ってもげてしまったのか、今度はヘラヘラした仮面みたいなものがつけられなくなっちゃって。色々とやりづらくなってしんどいけど、結果的にこっちのほうが生きている感じがするっていうのがあるんですよ。

平庫:それは、私も鬱をやっているのでわかります。私はなかなかハッキリと物事を言えなくなった時期があったんです。だから、漫画では極端なことを描きたくなったのかもしれないけど(笑)。でも最近思うんですよね。このちょっとブレーキがかかったような、負荷を感じる状態でやっていくのが人生なのかなって。

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