大塚英志が語る、日本の大衆文化の通史を描く意義 「はみ出し者こそが権力に吸収されやすい」
太平記から漫画、模型、アニメ、ボーカロイドまで、日本の大衆文化の通史を一冊の本で描き切った日文研大衆文化研究プロジェクトによる書籍『日本大衆文化史』(KADOKAWA)。
この本では、漫画の鳥獣戯画起源論など、現代の日本文化が中世や近世にルーツを持つとする説は、戦時下に政治的に必要とされて「創られた伝統」だと退けた上で、それとは別に一貫して存在してきた運動を描いていく。
「お約束」や共通前提(歌舞伎でいう「世界」)を踏まえながら新要素(同じく歌舞伎でいう「趣向」)を入れて作品が生み出されていくという、二次創作的とも言える仕組みこそが「文化」であり、それは有象無象の大衆=民俗学者の柳田國男がいう「群れとしての作者」が担ってきた、という見立てのもとで見えてきた「日本」「大衆」文化史の姿とは――主筆を務めた国際日本文化研究センター教授・大塚英志氏に訊いた。
『日本大衆文化史』は通史を書かない歴史学者へのカウンター
――この本に至る研究が始まった経緯を教えてください。
大塚:これは小松和彦が国際日本文化研究センターで始めた大衆文化研究プロジェクトの一部です。一応「日本」とつくけれど、僕はそれを懐疑し問いなおす意味だと理解している。彼は妖怪研究をやるなかで「従来のアカデミズムでは取り上げてこなかった領域を扱うことで豊かな暮らしや歴史が描ける」と彼なりに実感していた。ただ小松さんの専門の民俗学だと遡れるのが近世までという限界がある。
それで古代から現代までのいろんな分野の研究者を集めて複数のチームが作られた。そのうちの「通史の教科書を作る」ミッションのチームが作ったのがこの本です。
2月には副読本で『日本大衆文化論アンソロジー』が対として出る。これはKADOKAWAが売れそうもないから、出せないってことだったんで、太田出版から出ます。柳田國男から吉本隆明まで、「教科書」で援用した理論や応用できそうな議論を30本ほど選んで解説を付し、抄録しました。
――この本で大塚さんが主筆になった理由は?
大塚:教科書を作るチームのリーダーだからやらなきゃいけない、というシンプルな理由です。まあ実際やってるのは予算の管理だけ。それでも最後は責任持たなきゃいけない、ということ。
それがひとつと、正確に言うとぼくがメインのアンカーを務めたのは明治以降であって、ほかにもアンカーがいる。アンカーっていうのは研究者たちが専門ごとに出してきた題材をまとめ上げる役目で、研究書には本来存在しない。一昔前の週刊誌の記事作りの職能です。二章代表著者の伊藤慎吾、三章代表著者の香川雅信のアンカーの共通点は、だからライターとしてのスキルがきちんとあること。今の肩書きは博物館員や大学教員かもしれないけど「これをこう整理しこう繋げれば読者に届くよね」という文章の戦略を練ることができる人間です。だから香川さんなんか江戸期の文化を「二次創作」と大胆に言い切ることを恐れない。この「恐れない」というのが難しいんです。
なぜアンカーを用いたかといえば「歴史を記述する」といったときにアカデミックな歴史と、物語的な歴史が分断しているからです。たとえばかつてマルクス主義の歴史観では原始共産制から始まって共産制の実現までを見通した上で階級闘争の歴史を記述していた。つまり昔は、学問は見通しを立てるのが仕事だった。ところがそれが立てられなくなった。
後者の物語に頼る歴史の見方は『太平記』をはじめ、近代以前からあるやり方です。日本では近代に入って近代科学としての歴史学が生まれ、一方で、カウンターとして皇国史観が生まれた。そしてマルクス主義的な歴史観が失効した時、日本では教科書批判の人々を中心に「物語的」な歴史の復興が解かれた。物語も「見通し」を示す手法であるからです。
問題なのは、いま現在「歴史学は見通しを作っていく学問だ」とお題目として言う人はいるけれども、実際やってみせる人はとても少なくなってしまった。
結果として、百田尚樹さんが“優れた放送作家として”歴史を書いた。ナショナリズム的な信条を持ったひとに訴える「物語」で、あれはテレビ番組やAmazonPrimeVideoあたりでワンクールもので番組つくったら相応に成立する内容になっている。それでも「見通し」であることは否定できない。
そしてほかにも通史を書いている人間はいますが、高橋克彦をはじめ基本的に作家たちです。それに対して歴史学者が「ミステリーでも書いてろ」と嘲るのは傲慢であって、僕も物語作者の端くれとして結構怒っていた。専門家を称するなら「じゃあ、私が書く」と言うべきなんだよということです。
たしかにアカデミシャンによる百田尚樹さんを意識した通史的な本は出た。けれども、それは例えば近代史の部分を10人くらいで分担して書いているわけ。10人の各論になってしまう。それに対して「歴史を見通すとはどういうことなのか」を考えて、アンカーに「見通すことを恐れない」ライターを並べたのがこの『日本大衆文化史』。それ自体が問いかけです。
人びとは歴史に「見通し」を求めている。そこに答えられなかったら退場していくのは作家じゃなくて研究者のほうじゃないの? とぼくは思う。ぼくは百田さんの書いた歴史は全否定するけれども、しかしそれは「作家が書いたから」ということをもっての否定ではない。高橋さんの仕事に対しても同じスタンスです。石森(章太郎)先生、手塚(治虫)先生だって「見通し」を持った歴史を描いている。それができないんだったら歴史学者こそアカデミックな世界に閉じこもっていろとぼくは言いたい。まあコロナ見てもわかるように、「見通しを示せない専門家」というのは歴史学や人文系に限ったことではない問題だけれど。
「世界」と「趣向」モデルの出典は柳田國男
――そこで採用した「見通し」、つまり、この本なりの文化史の見方が「群れとしての作者」であり、「世界」に「趣向」を加えていくのが文化である、というものだったと。この見立てを採用した理由は?
大塚:「世界」と「趣向」というフレーム自体は、1989年にエロ雑誌とかのライターをやっていたぼくが柳田國男の考え方を使って書いた『物語消費論』で提示した前世紀の遺物です。ただ、『物語消費論』がその後、東浩紀の『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』(2000年)で参照され、海外の日本研究でスタンダードな理論の一つになり、それが日本文化論化していくことに長く違和感があった。ありもしない日本文化のオタクポストモダニズム的特殊性を強調する仮説になっちゃっている。だから、海外向けにこのフレームを使うのは軽い皮肉でもある。
しかし、「世界」と「趣向」という考えは別に日本のポストモダン化を説明するための道具ではなくて、ありふれた文化現象です。ただ、その前提としての「群としてのしての作者」という概念自体が柳田民俗学の基本的な考え方で、「見通し」と入っても、つまりは柳田的な考え方で「通史」を書いたわけです。
かつて60~70年代くらいまでの知識人は、たとえば日文研を創設した梅原猛にしたって、大きな見通しを立てたい人だった。ただし梅原史観に対しては専門家から各論に対して「ここは違う」「例外がある」と細部に対する批判や反発が殺到し、大きな見通しを立てること自体が忌避されるようになった印象がある。僕らの本も重箱の隅はいくらでも突っ込めると思います。だけど海外では枠組みがないものは評価されない。それで暫定的に「世界」と「趣向」モデルを採用したというわけです。前世紀に、エロ雑誌のライターが書いたフレームでもこの程度のことが言えますよって。
――なるほど。
大塚:同時に記述方法としては、柳田國男の『明治大正史 世相編』を意識しています。柳田は「固有名詞が出てこない歴史を書く」と言って、当時、人がどう色を感じていたか、といったことを記述したわけだけれども、その試みは成功している。かつての日本のように社会が小さく閉じている段階では、柳田はデリケートに人びとの感覚ですくうことができたし、本当はぼくもそれをやりたかった。けれども今のように社会が分断していて感覚における共通の前提がない状態では、さすがにある程度の固有名詞を使って書かないと読み手に対して話が成立しない。
とはいえ「こういう立派な作品・人がいて歴史を変えました」と並べて書いていくのが正しいのか。たとえばこういうインタビュー記事なんて言っちゃ悪いけど歴史のどこにも記述されない。しかし百年後とかに誰かが「あ、この時代の人はこんなことを言っていたのか」と見つけて何か書くかもしれない。そういうことの積み重ねのなかで文化は作られていく。
つまり、ひとりの天才が文化を作るわけではない。表現をする人たちは、教科書に名前が載るような人たち以上にたくさんいて、それが従来「大衆」や「常民」と呼んでいた人たちの姿なんじゃないか。そして「大衆」は決して、有名で偉大な作家が作ったものの一方的な受け手ではないし、歴史に名前が残っている人物だってたまたま事故のように浮上して時代の象徴になっただけなんだろう、と。その総体を捉えたのがさっき言った柳田の「群れとしての作者」という概念であり、文化が更新されるときには「世界」と「趣向」があるという考えです。ただ、今ではたんに「世界」と「趣向」と言うより「二次創作」という便利な言葉がある。それにある程度、雑に乗っかった方がこの本の読者に届きやすいだろう、と。そういう戦略です。