手塚治虫の異色作『ばるぼら』に込められた“芸術家の意志” 破滅の物語に差す一筋の光とは?
手塚治虫といえば、何かにつけて「命と平和の尊さを描いた作家(漫画家)」として語られがちであるが、彼が遺した膨大な作品群の中には、人間の暗い感情やインモラルな世界、そして、悪の魅力を表現した漫画も少なからず存在する。具体的にいえば、『アラバスター』、『MW(ムウ)』、『きりひと讃歌』、『人間昆虫記』、『バンパイヤ』、『奇子』といったタイトルを挙げることができるが、このたび手塚眞監督、稲垣吾郎・二階堂ふみ主演で映画化された『ばるぼら』もまた、その種の――つまり、手塚治虫のダークサイドを代表する異色作のひとつだといっていいだろう(映画公開は本日11月20日から)。
さて、1973年から1974年にかけて『ビッグコミック』で連載された『ばるぼら』は、ひとりの作家の破滅の物語だ。主人公の名は、美倉洋介。「耽美主義をかざして、文壇にユニークな地位をきずいた流行作家」だが、そんな彼はあるとき、新宿駅の柱の陰にうずくまっている小汚い少女を拾う。「バルボラ」という名のその少女は、酒に溺れ、美倉の原稿料を勝手に持ち出すようなひどい女だったが、なぜか彼は彼女を追い出すことができず、一緒に暮らすようになる。
※以下、ネタバレ注意
美倉洋介とバルボラの関係性
そもそもなぜ、美倉はバルボラを捨てることができなかったのか。それは、彼女が芸術家にとっての「ミューズ」だったからにほかならない。実際、バルボラはこれまでもさまざまな芸術家のミューズとして、彼らに創作のための“霊感(インスピレーション)”を与えてきたようだ。美倉もまた、彼女をそばに置くことで、(もともと売れている作家ではあったのだが)さらなる流行作家としての地位を固めていくことになる。
ちなみにこの美倉洋介、物語の序盤では異常性欲者として描かれている。いや、いまのご時世、何が異常で何が正常なのかの線引きは難しいが、それでも、本作で美倉が欲情する相手は、デパートのマネキン人形だったり、同業者の許嫁の飼い犬だったりするわけで、少なくとも、現代の感覚で見ても「よくある性癖」とはいいがたいだろう。さらに主人公の内面を複雑にしているのは、彼の目には、それらのマネキン人形や犬が「美しい女」として映っているという点だ。つまり、美倉の中では異常と正常、あるいは妄想と現実の境目(さかいめ)が曖昧であり、そうした「資質(性癖)」が、彼の創作の原動力になっているのである(美倉自身、そんな自分を客観視もできていて、「これをやめればおれもおわりだ。これがおれの作家生活の支えになってる」といっている)。
だが、やがて薄汚れた少女だったバルボラは、顔も体も成熟した美しい女の姿に変化し、美倉はそんな彼女を愛すようになる(余談だが「変身」――すなわち「メタモルフォーゼ」は手塚漫画の大きなテーマのひとつでもある)。そしてふたりの黒魔術の儀式めいた結婚式が失敗し、そのあたりからもともとデカダンス色の強かった物語は、さらなる破滅へと向かって転がっていくのだった……。
興味深いのは、物語の中盤から、ヒロインの設定に「芸術家のミューズ」だけでなく、「現代の魔女」という要素も付け加えられる点だ。「手塚治虫漫画全集」版の「あとがき」によると、読者に伝わりにくい前半の主観的な部分をわかりやすくするために、後半は、当時流行っていたオカルトの要素を表面に出して物語を「あおった」そうだが、これなどはまさにそのオカルト的な「テコ入れ」を象徴する設定であったといっていいだろう。かといって、それは別に「とってつけたような設定」というわけでもなく、むしろその「魔女」という新たに加えられた呪術的な要素が、バルボラというなんとも風変わりな女性を、他にあまり類を見ないタイプのヒロイン(妖女)にしたといっても過言ではあるまい。
とはいえ、ここでひとつ疑問がわいてこないだろうか。そう――ミューズにせよ、魔女にせよ、果たしてバルボラなる女性は実在したのか、という疑問だ。何しろ、先に書いたように、美倉洋介という作家は、マネキン人形や犬を「美女」だと思い込んで、欲情するような男である。だとすれば、彼の目に映っていたバルボラという女もまた、彼の妄想が生み出した存在ではないとは誰もいいきれまい。手塚も前述の「あとがき」において、本作のことを「どこからどこまでが主人公の妄想の産物なのかわかりません」と書いているとおりだ。