あだち充『タッチ』は極めて80年代的なスポ根漫画だったーー上杉達也が見せた“ド根性”

 さて、ここでこの勝負の結末を書くつもりはない。では、私が本稿の最後で何を書きたいのかといえば、それは、この上杉達也が新田明男に対して真剣勝負を挑んでいる場面で、彼の隣に和也(とおぼしき少年)の幻がふっと現れる描写の意味についてだ。

 これは、いったい何を表しているのだろうか。普通で考えたら、(『タッチ』は本来、スーパーナチュラルの要素がある漫画ではないが)「和也の幻が達也に力を与えた」ということを表象しているのだろう。実際、達也ものちに「和也の執念」が須見工業との勝負を決めたというようなことをいっている。

 しかし、私の解釈は少々異なっており、ここで描かれているのは、「上杉達也の成長」なのではないかと思っている。そう、かつて新田が望んだように「和也を超え」たかどうかまではわからないが、少なくとも、2年の歳月をかけて達也は和也と対等のピッチャーに成長した。弟の遺志を継ぐ? 南を甲子園に連れていく? たしかにそれも達也が野球をやるうえで、大きなモチベーションにはなっているだろう。だがそれだけでは、彼には“自分”がないということになってしまう。無論、そんなことはないわけであり、そもそもこの新田明男との熱い戦いを見ていておのずと浮かび上がってくるのは、ひとりの愛すべき「野球バカ」の姿ではないだろうか。

 いずれにせよ、上杉達也は「誰かのため」ではなく、自分の意志で野球を選んだ。弟の和也は「努力家の秀才」だったが、兄である彼は「努力しない天才」だった。そんなダメな天才が2年のあいだ血の滲むような努力をして、弟と対等の投手にまで成長した。だからたぶん――ここはあえて、非現実的な解釈をさせてもらうが――あのクライマックスの場面で現れた和也の幻は、別に疲れ切っている兄に力を貸したわけではなく、どちらかといえば、ようやく本気になった「アニキ」と一緒に野球ができることを楽しんでいるように私には見える。そしてその弟の想いに、ほとんど力の残っていなかった兄もまた、ド根性で応えたのだ――。

おれは上杉達也でなきゃいけないんだ。おまえと一緒に甲子園にいくためには――

あだち充『タッチ』23巻(小学館/少年サンデーコミックス)より

 やはり『タッチ』という作品は、「スポ根漫画を終わらせた」のではなく、極めて80年代的なスポ根漫画だった、と考えたほうがいいのではないだろうか。

■島田一志
1969年生まれ。ライター、編集者。『九龍』元編集長。近年では小学館の『漫画家本』シリーズを企画。著書・共著に『ワルの漫画術』『漫画家、映画を語る。』『マンガの現在地!』などがある。Twitter

■書籍情報
『タッチ(1)』
あだち充 著
価格:462円(税込/電子版)
出版社:小学館

関連記事