90年代ホラーの傑作『座敷女』は今も我々を追い詰める……理不尽なストーカーの恐怖

 本来なら肝だめしや怪談などで身も心も涼みたいシーズンですが、今年の夏はご存知のように新型コロナウイルスの影響でそんなことを楽しんでる場合じゃなし。オバケよりもコロナの方が心配ですからね。 

 しかし、そういったこちらが大変な時だろうがなんだろうがおかまいなしにやって来るものこそが一番怖いんです。遠慮なし、空気も読まない魔物ほど恐ろしいものはない。付け加えると「なんにも悪いことしてないのなんでこんな目に?」「むしろ優しくしたのになんでこんなことに?」ってなことは大なり小なりわりとあるもんでして……。

 そんな時、私はある“こわい漫画”を思い出すのです。 

当時のホラー漫画の状況

 『座敷女』は1993年に『週刊ヤングマガジン』で連載されていた望月峯太郎(現・望月ミネタロウ)の作品である。

 当時の望月峯太郎といえば『バタアシ金魚』でデビューして以来、『バイクメ~ン』、『お茶の間』と立て続けに話題作を発表しており、“オタク臭”皆無なその画風やディテールに絶対的な信頼感を持つことができる作家であった。この漫画家さんはきっと友達も多く学校でも人気者だったのではなかろうか……といった勝手な確信を持ちながらその作品を楽しんでいたもんだ。

 というのも望月峯太郎作品の登場人物のファッションやセリフまわしなどには多くの漫画作品に少なからずあった”ある種のイタさ”がなかったし、現実とズレがある“妄想で描いた若者像”も存在しなかった。つまり簡単な言葉で片付けるなら、“イケてる”漫画家による“イケてる”漫画が望月作品である。

 ロックンロールのおとぎ話ともいえる『バイクメ~ン』に関しても、50年代のロックンロールやイギリスのユースカルチャーである“ロッカーズ”に対する描写も実に丁寧で突っ込む隙などまるでなく、ロックンロールの幻想世界をファンタジックに描くことに見事に成功しており、読んでて気恥ずかしくなることなどまるでない稀有な作品を描ける作家なのであった。

 ただ、そんな“イケてる”作者が描く作品ゆえに“イケてない”方の登場人物は残酷なほどに“イケてない”。しかもリアル。今でいうところの“陰キャ”っていうやつだ。そう、後に描いた代表作『ドラゴンヘッド』に登場するノブオのように。

 前置きが長くなったが、そんな作者の手による“こわい漫画”が『座敷女』だ。当初はそのタイトルの響きからちょっとコミカルな話なのかと思って気軽にページを捲ったのだが、読み進めるうちに恐怖の闇にグイグイ引きずり込まれることとなる。

 当時ホラー漫画といえば『ハロウィン』や『ホラーM』など少女向けの漫画雑誌が独占状態であり、少年誌、青年誌にホラー漫画が掲載されるのは珍しい時代であった。70年代であれば『チャンピオン』誌上のつのだじろうや古賀新一の漫画が人気を誇ってはいたが、いつの日かそれらは時代の影に追いやられ、別格の楳図かずおにしてももはや単純にホラー漫画の枠にはおさまらない存在となっていた頃である。そんな時代に唐突に始まった『座敷女』は、『BE-BOP-HIGHSCHOOL』や『稲中卓球部』目当てに『ヤンマガ』を買い、何の悪気もなくページを開いてしまった者たち全てを残らず戦慄させたのだ。

「ストーカー」という言葉

 日々を楽しく暮らす“イケてる”タイプの大学生の森ひろしは真夜中に隣の部屋のドアが延々とノックされる音に気づく。ドアを開け覗いてみるとそこには不気味な大女が立っていた。真っ黒な長い髪にやけに長い顔、ロングコートの袖からのぞく手首にはぶっといリストカットの跡。履き潰した小汚いぺったんこの靴。そして片手には謎の紙袋……。後日、その大女(サチコ)がひろしの部屋を訪れ、うっかり玄関に入れてしまったばかりか電話を貸してしまうのだが、これが悲劇、いや惨劇のはじまりなのであった……。 

 このように本作はホラー漫画とはいえ心霊や怪物モノではない。正体は謎ではあるものの生身の人間である「ストーカー」と都市伝説が交錯しながら読み手の心を掻き毟り続け、我らの平穏を切り刻んでいくような作品だ。それにしても、まだ我が国で「ストーカー」という言葉が一般的に知られる90年代後半以前に既にストーカーをモチーフにした作品を描いたその先見性はさすがである。

 つきまとい行為が殺人に直結してしまった99年の「桶川ストーカー殺人事件」を機に『ストーカー行為等の規制等に関する法律』が2000年に制定されたわけだが、それ以前の「警察や法が助けてくれない時代」に出現したのがこの『座敷女』である。 

 ここで時代背景をみてみよう。映画でいえば『不法侵入』(92年)、『ストーカー 異常性愛 』(93年)がほぼ『座敷女』と同時期の作品であり、国内のテレビドラマでは佐野史郎の怪演で「冬彦さん現象」と言われる一大ブームを作りあげた『ずっとあなたが好きだった』(92年)、『十年愛』(92年)、『ジェラシー』(93年)などがある。これらの作品には「ストーカー」と後に呼ばれるような行為を繰り返す人物が登場する。 

 また、ホラー映画の分野に目をむけてみると、『ミザリー』(90年)や『セブン』(95年)のヒットを期に主流はサイコスリラーへと流行が移り変わろうとしていた時代。そんな中、91年には『羊たちの沈黙』が第64回アカデミー賞で主要5部門を受賞しホラー映画史上初のアカデミー作品賞という快挙を果たした。ここから“サイコキャラ”が映画に登場するのは特異なものではなくなったと言ってもよいであろう。 

 そんな時代に産まれた本作だが、正体不明、得体の知れない人間に付きまとわれるという理不尽極まりない恐怖に加え、この「サチコ」は「ロングコート姿で100mを10秒きって走る」という“口裂け女”的な怪物性も兼ね備えている。サチコの走る姿はまるで『ウルトラQ』に登場したケムール人のような不気味さがあり、あのランニング・シーンは我が国の漫画トラウマ史上に新たなページを加えるものになったのではなかろうか。また、主人公ひろしの友人であり空手家の佐竹が何度蹴りを入れてもゾンビのように立ち上がる「サチコ」の姿にも多くの読者が戦慄を覚えたに違いない。

 こちらの怒りも悲しみも正義もなにも通じない相手と対峙した恐怖。 しかもつきまとわれる理由はなし。いや、理由は一度見つかる。小学生時代にひろしや佐竹がいじめた「悪霊」というあだ名の女子の復讐である。ならばこのような目にあうのもある程度は仕方ないといったん思わせておいて、ひろしどころか読み手の我らをどん底に叩き落とす容赦なき物語。そう、サチコは「悪霊」でも同級生でもない、「全然知らない女」だったのだ……。 

 このように“イケてない”どころか“いきすぎ”な謎の大女の常軌を逸した行動が“イケてる”者たちを追い詰めていく物語が『座敷女』なのだが、これはイケてる側に立った作者がその目線で、イケてない者からの逆襲への恐怖を描いているかのように見える。我々ももちろんその目線で読み進め、恐怖する。だがしかし、座敷女「サチコ」が「ホントの痛みがどんなものか知ってる?」と自らが手首を切った時の感触、感情、真の痛みからの解放を語る場面では イケてなかった側の生々しい感情が主体性を帯び始め、「サチコ」の狂行の奥底にある感情をほんのりと理解してしまう逆転的な感情も芽生えそうになるわけだ。それに気づいた時、我々はもう一つ上の恐怖を覚えることになる。自分もなにかのはずみで座敷女(男)になる可能性がないとはいえないではないかという……。

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