村上春樹『一人称単数』はフェミニズム的な観点からの自己批判だ 「僕/ぼく」や「私」を強く意識することの意味

 興味深いのは、本短編集では、そんな女性蔑視の構造が自己批判されていることだ。短編集の最後にあたる「一人称単数」では、終盤、語り手「私」は、ある女性から糾弾されることになる。「私」が「洒落たかっこうをして、一人でバーのカウンターに座って、ギムレットを飲みながら、寡黙に読書に耽っていること」を指して、「そんなことをしていて、なにか愉しい?」と。この気取った「私」の振る舞いは村上春樹的なイメージを戯画化しているようであり、したがって、女性の批判は村上春樹そのものへの批判にも思える。その点が面白い。

 女性は「私」と少しだけ面識があるようだが、「私」は例によって覚えていないし、思い出せない。女性は続けて、「私」を批判する。

「あなたのその親しいお友だちは、というかかつて親しかったお友だちは、今ではあなたのことをとても不愉快に思っているし、私も彼女と同じくらいあなたのことを不愉快に思っている。思い当たることはあるはずよ。よくよく考えてごらんなさい。三年前に、どこかの水辺であったことを。そこでご自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい。」

 都合のよい記憶からなる一人称単数の「私」は、他人にふるった暴力や痛みを都合よく忘れている可能性がある。本作の最後は、念が押されるように、女性の「恥を知りなさい」という言葉で締めくくられる。この「恥」とは、引用部からもわかるように、他人にふるった暴力や痛みに対して無自覚でいることの「恥」である。そして「一人称単数」という作品において、それは女性に対する暴力性として示されている。

 覚えたいことを覚え忘れたいことを忘れる都合のよい語り手の「私」は、それが「私」である時点で「恥」を抱えている。「私」が「私」としてあること自体が、暴力的であり「恥」なのだ。

 村上春樹が描いてきた「僕」に代表される一人称単数の語り手は、その男性中心的なありかたが批判されてきた。短編集『一人称単数』が「一人称単数」の語り手であることを強く意識させるのであれば、それは、思い出せないところで暴力をふるい、他人を傷つけた、そんな「恥」知らずな「私」を強く意識させることに他ならない。

 だとすれば、問われるのは、このような反省や自己批判を受け止め、いかに「私」のものとして血肉化していくか、ということだろう。「私」が「私」でしかないことに居直ることなしに。本短編集『一人称単数』がそれを達成できているかどうかは微妙なとこだが、欺瞞的にならないように、という程度の誠実さは感じる。

■矢野利裕(やの・としひろ)
1983年、東京都生まれ。批評家、ライター、DJ、イラスト。東京学芸大学大学院修士課程修了。2014年「自分ならざる者を精一杯に生きる――町田康論」で第57回群像新人文学賞評論部門優秀作受賞。近著に『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』(垣内出版)、『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)、共著に、大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と一九九〇年代』(おうふう)など。

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