『僕のヒーローアカデミア』『ブラッククローバー』 ヒーロー漫画としての違いとは?
『ヒロアカ』デクにはなぜ母親がいるのか
いくら似ていても、『ヒロアカ』と『ブラクロ』には明確な違いもある。とりわけ『ヒロアカ』のジャンプ王道路線における立ち位置は絶妙なのだ。
よく指摘されることだが『ヒロアカ』は、ジャンプ王道を参照するだけでなく、アメコミからも強く影響を受けている。主人公デクが憧れるオールマイトのキャラクター造形や英語で表記される擬音語など、アメコミ的意匠が随所に登場する。しかし、それだけなら過去のジャンプ作品にもアメコミ意匠を使った作品はあった。『ヒロアカ』の特殊さはそうした表層的な意匠に留まらない。
ジャンプヒーローの定石としてまだ言及していない点がある。それは母親の不在だ。母の存在が言及されたとしても、過去のエピソードや回想などによるものがほとんどで、現在進行形で主人公の母親が描かれるケースが少ないのである。『DORAGON BALL』の孫悟空、『ONE PIECE』のルフィはもちろん、『NARUTO』や『ダイの大冒険』などは回想の中での登場だった。近年の大ヒット作『鬼滅の刃』は1話目で他の家族とともに死亡しているし、『呪術廻戦』の虎杖悠仁は祖父に育てられた。そして『ブラッククローバー』もこの例に漏れず、アスタの母は(今のところ)まったく登場していない。
だが、『ヒロアカ』にはデクの母親が明確に登場する。しかも、特殊な才能を持っているわけでもなく、ただただ息子の身を案ずる「普通の母親」として登場するのだ。デクの母親のキャラクターは少年ジャンプのヒーローとして異例中の異例だ。
そして、そんな母親が息子への愛ゆえにヒーローの頂点オールマイトを言い負かすことすらあるのだ。雄英高校が全寮制となる際に、ヴィランにやられ続けていた雄英高校の体制を疑問視したデクの母親は、「今の雄英高校に息子を預けられる程、私の肝は据わっておりません」と肝の据わった顔できっぱりと言い切る(96話より)。デクをめぐる母とオールマイトのやり取りを描いた96話と97話は、本作きっての名シーンだと筆者は思う。
それにしてもなぜジャンプのヒーロー漫画には主人公の母親は登場しないのか。これについて、『ONE PIECE』の尾田栄一郎氏が、なぜ『ONE PIECE』の登場人物には母親がいない、あるいはすでに死亡している場合が多いのか、という読者からの質問に対し、「なるほど。まあ、答えは簡単です。『冒険』の対義語が『母』だからです」と回答している(『ONE PIECE』70巻より』)。
そうした王道のお約束を『ヒロアカ』の作者、堀越耕平氏が知らなかったとは思えない。少なくとも担当編者は知っていないとおかしい。『ヒロアカ』は、意図的に王道からずらされているのではないか。
『ヒロアカ』には作品全体に、「ヒーローとは何か」という問いかけがある。社会にとってヒーローとは、なぜヒーローだけが暴力をふるっても許されるのか、ヒーローがいるからヴィランが生まれてしまうのではないかなど、ヒーローをめぐるメタ的な問いかけに溢れている。母親の登場もそうしたメタ的な問いかけの一環のように筆者には読める。
対して、『ブラクロ』はそうしたメタ的な問いかけよりも、まっすぐにジャンプ王道の物語を描くことを優先している。主人公アスタは教会の前に捨てられていた孤児という設定だが、今後その出生の秘密が描かれるのだろうか。しかし、もし特別な生まれであることが描かれたとしても、それはジャンプ王道のパターンのそれであり、デクの母親の斬新さとは異なるものになるだろう。しかし、そのベタさが本作の魅力ともなっていることもまた確かだ。
『ブラクロ』はあえてベタを貫き、『ヒロアカ』はあえてベタからずれる。ジャンプのヒーローとはどういう存在なのか、両作品を比較してみることで見えてくることが多い。この2本がこれからどんな展開を迎えるのか楽しみだ。
■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。
■書籍情報
『僕のヒーローアカデミア』既刊27巻
著者:堀越耕平
出版社:集英社
https://www.shonenjump.com/j/rensai/myhero.html
『ブラッククローバー』既刊25巻
著者:田畠裕基
出版社:集英社
https://www.shonenjump.com/j/rensai/bclover.html