『かぐや様は告らせたい』は“素直が一番”な時代のラブコメだ 『はめふら』とも共通する構造を分析

『はめふら』と『かぐや様』の共通点

『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』

 『はめふら』では主人公が、自分が中世ヨーロッパ風異世界を舞台にした乙女ゲームの悪役令嬢カタリナ・クラエスに転生していたことに気付く。

 前世でプレイしていたゲームの中では、プレイヤーキャラであるマリアにいじわるをする悪役令嬢カタリナは、さまざまなエンディングのほとんどで破滅(悲惨な結末)を迎える。そんな不幸な未来を避けるため、カタリナとなった主人公は、周囲の人間たちに徹底的に好意的に振る舞う。

 といってもカタリナは、それが打算に見えないくらい天然で行動的(木登りが得意だったり、畑仕事に勤しんだり、無数のロマンス小説に耽溺したりと、どこが悪役令嬢なんだというボケ要素が最高におかしい)、圧倒的に陽キャラだ。そんなカタリナの性格のよさが、みなを癒していく。元のゲームでの悪役令嬢カタリナは、マリアに対して謀略を巡らせるが、ほとんどのエンドで結局のところ悪事がバレて破滅する。

 『かぐや様』でも、かぐやと御行の策略はことごとく空回りし、ド天然の藤原書記が無自覚にグイグイ放ってくる球がふたりを動かすことが多い。

 両作ともに「スマホで録音・録画されていて悪事(策略)がバラされました」というモロな展開はないが(ちなみにこういうものも『梨泰院クラス』はじめ近年大量に見られる)、物語が示しているのは「素直が一番」「打算はギャグにしかならない」という結論だ。

 謀略のかぎりを尽くした悪役が最終的に打破されるのは、はるか昔から繰り返されてきたカタルシスを与えてくれるストーリーのパターンであり、もちろん、今後もなくなることはないだろう。

 ただ、スマホの録音・録画一発で圧倒的な権力を手中に収めた人物の陰謀が瓦解する、というのは(現実ではよく起こっていることとはいえ)物語として考えるとバランスが悪すぎる。

 逆に言えば、「今どきそんなこと言って/して、誰かに録音されたり隠し撮りされてたらどうすんの?」というハードルを乗り越えて、策を張り巡らせまくる権力者の悪役に説得力や勝機を持たせるための工夫・発明が必要になっているとも言える。

 しかしそれはなかなか困難だ。

 だったら「いやあ、もうそういう悪役然としたキャラとか二面性のある振る舞いとか、なかなか成立しないよね」という前提で笑いの対象として扱ってくれたほうが、今の時代の気分としてはしっくりくる。『かぐや様』や『はめふら』は、まさにそういう作品だ。人間関係に対するこざかしい戦略が通用しなくなった時代のコメディなのだ。

■飯田一史
取材・調査・執筆業。出版社にてカルチャー誌、小説の編集者を経て独立。コンテンツビジネスや出版産業、ネット文化、最近は児童書市場や読書推進施策に関心がある。著作に『マンガ雑誌は死んだ。で、どうなるの? マンガアプリ以降のマンガビジネス大転換時代』『ウェブ小説の衝撃』など。出版業界紙「新文化」にて「子どもの本が売れる理由 知られざるFACT」(https://www.shinbunka.co.jp/rensai/kodomonohonlog.htm)、小説誌「小説すばる」にウェブ小説時評「書を捨てよ、ウェブへ出よう」連載中。グロービスMBA。

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