村上春樹が描く「異界」のルーツを辿る ノンフィクション『猫を棄てる』の読み方

 では、村上春樹自身はどのように父から受け継いだトラウマと向き合ってきたのか。その過程は、〈僕〉が〈ひとりの平凡な人間の、ひとりの平凡な息子に過ぎないという事実〉を伝えるのが目的だという本書で詳しく語られはしない。だからといって、平凡であると伝えようとする文章が退屈というわけではない。村上の抑えた筆致から浮かび上がる、父・千秋の平凡な人物像の内に秘められた苦悩や葛藤は、十分に読み応えがある。

 書かれていない過程を知る手がかりは、村上春樹がこれまで書いてきた小説の中にある。村上が息子の学業での成功を望む父に反して、〈好きな本をたくさん読み、好きな音楽をたくさん聴き、(略)あるいはガール・フレンドとデートをしていたりする方が、より大事な意味を持つ〉と考えていた頃のような若者が主人公となるデビュー作『風の歌を聴け』。暴力がもたらす恐怖や不条理を徹底的に描き、壮大な物語に昇華した『ねじまき鳥クロニクル』。父親から受けた呪いを振り払おうと15歳の少年が旅に出る『海辺のカフカ』など、ノーベル文学賞候補ともいわれる世界的な作家にとっつきにくさを感じていた人も、本書を入口に作品を興味深く読むことができるようになるはずだ。

 村上春樹の著作で最初に何を読めばいいのか?今後誰かに聞かれることがあれば、私は真っ先に『猫を棄てる 父親について語るとき』を挙げる。

■藤井勉
1983年生まれ。「エキサイトレビュー」などで、文芸・ノンフィクション・音楽を中心に新刊書籍の書評を執筆。共著に『村上春樹を音楽で読み解く』(日本文芸社)、『村上春樹の100曲』(立東舎)。Twitter:@kawaibuchou

■書籍情報
『猫を棄てる 父親について語るとき』
著者:村上春樹
出版社:文藝春秋
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163911939

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