悪役から読む『鬼滅の刃』の魅力 煉󠄁獄杏寿郎と戦った、上弦の鬼・猗窩座の生き様

 ドイツ文学者の種村季弘は、『悪の娯しみ』というエッセイ(『書国探検記』ちくま学芸文庫・所収)の中で、次のようなことを書いている。「多少とも悪の娯しみを書いていない文学などこの世にあろうとも思えない」と。そしてさらにこう続ける。

 なまなましく、いきいきとして、極彩色に塗りたくられた悪にくらべて、この善はまた何と抽象的でしらじらしく、退屈なことであろうか。(中略)善は抽象的な原理だから、善そのものを書くことは難しい。(前掲書より)

 つまり、具体的な「悪」との対比でしか、生々しい「善」を表現する術(すべ)はなく、言い方を変えれば、たいていの物語は、「初めに善ありき」ではなく、「初めに悪ありき」だということだ。よりわかりやすくいえば、いわゆる「ヒーロー物」の作品においては、(抽象的な)“正義の味方”単独では物語を展開させようがなく、あくまでも、最初に(具体的な)悪の存在があり、次にそれを懲らしめるためにヒーローが生まれる、ということである。

 これを、今年に入ってからますますその人気をヒートアップさせている吾峠呼世晴の『鬼滅の刃』に当てはめていえば、鬼舞辻󠄀無惨とその配下の鬼たちがいたから、鬼殺隊のヒーロー(ヒロイン)たちが生まれた、ということだ。何を当たり前のことを、と思う方もおられるかもしれないが、これはキャラクター作りにおいてはかなり重要なことであり、極論をいえば、まずは主人公を食いかねないような魅力を持った悪役を生み出さなければ、おもしろい物語を描くことはできないということだ。そのうえで、作者は、その悪役をさらに上回る魅力を持った主人公(と仲間たち)を創造しないといけないわけで、それがうまくいきさえすれば、おもしろい物語作りはほぼ完成したといってもいいだろう(特に漫画においては、キャラクター作りがすべてを決めるといっても過言ではない)。

正々堂々戦う悪役・猗窩座

※以下、ネタバレ注意

 実際、『鬼滅の刃』でも、首領である鬼舞辻󠄀無惨はいうまでもなく、彼の配下の鬼たちはいずれも悪の魅力に満ちた「名キャラクター」ばかりだ。特に、「上弦の鬼」といわれる最強の鬼たちのキャラクター造形はいずれも素晴らしいもので、なんというか、読んでいて本当に憎らしい(「憎らしい」ということは、悪役として極めて魅力的だということである)。たとえば、鬼殺隊の胡蝶姉妹と伊之助の母親を殺した童磨の、救いようのない非道さはある意味では「お見事」だとしかいいようがない(他の鬼たちと違って、最後の最後まで反省しないところもむしろ清々しい)。あるいは、かつて善逸の兄弟子だった獪岳の、一時は正義の心に目覚めながらも(鬼殺隊に入ったということはそういうことだろう)、最後にはやはり魔道に堕ちてしまうという悲しい性(さが)……。いずれにせよ、敵対する鬼どもがこうした深みのある「悪い」存在だからこそ、それを鬼殺隊の誰かが激闘の末に打ち破ったとき、読者は大きなカタルシスを得ることができるのだ。

 そんななか、私が個人的にもっとも注目している鬼は、上弦の参の猗窩座である。顔も含めた全身に幾何学的な文様を持つ彼が物語に初登場するのは、単行本でいえば第8巻。主人公の竈門炭治郎とではなく、「炎柱」の煉󠄁獄杏寿郎と死闘を繰り広げる武闘派の鬼だ(炭治郎もその場にはいるのだが、重傷を負っているため、ふたりの戦いを見ているほかない)。

 鬼化する以前――狛治という名の寡黙な武術家だった猗窩座は、鬼殺隊きっての剣豪である煉󠄁獄相手に、人間だった頃と同じように素手で戦う。これが潔い。無論、素手とはいえ、それは“血鬼術”を用いての拳撃であり、また、鬼ならではの素早い再生能力もあるわけで、人間である煉󠄁獄と対等ではないのだが、それでも卑怯な術や毒などを使いがちな他の鬼たちとは異なる、正々堂々とした戦い方だといっていい。

 結果からいえば、猗窩座は煉󠄁獄に致命傷を負わせるものの、朝日が昇ってきたために勝敗はうやむやになる(鬼は陽光に弱いのだ)。そして、猗窩座は逃走し、煉󠄁獄はその場で絶命する。ここでちょっと『鬼滅』ファンの方に訊いてみたいことがあるのだが、この猗窩座について、いま書いた煉󠄁獄との戦いを初めて読んだとき、あなたはどういう印象を持っただろうか。というのは、煉󠄁獄杏寿郎といえば、魅力的なキャラ揃いの「柱」たちの中でもおそらくはトップクラスの人気を誇る好漢である。そんな漢(おとこ)を倒した敵は、通常ならファンとしては憎くてたまらないはずだ。だがたぶん、(これは個人的な見解にすぎないが)この猗窩座に対して、それほど悪い印象を抱かなかった読者が少なくないのではないだろうか。だとしたらそれは、繰り返しになるが、猗窩座という鬼が、剣の達人である煉󠄁獄に対して、拳ひとつで正々堂々と戦った潔い“格闘家”だったからにほかならない。

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