又吉直樹×西加奈子、小説『人間』対談 「自分は誰かで、誰かは自分だって考えることもできる」
又吉「みんな、普段は同時にいろいろと認識している」
西:屏風絵とか襖絵って、春夏秋冬が全部一緒に描かれていたりするじゃないですか。又吉さんの言う一緒って、そういう感覚に近いのかな。小説に絶対的なルールはないとはいえ、やっぱり最初から順番に読むしかないじゃないですか。「同時」を同時に描くことはできない。でも『人間』は、この長さでそれが限りなくできてるような気がして。
又吉:普段、西さんとお話しててもそうですけど、喋ってて急に話が変わって、「あれあるやん」「何々ですよね」「そうそう」みたいなことあるじゃないですか。要は言葉で説明してへんのに共有できたりとか、会話して考えごとしながら腹減ってきたなって感じたりとか。みんな、普段は同時にいろいろと認識しているんですよ。でも、その思考のブレンドを小説で書かれると、みんな酔うと思うんです。何書いてんねんってなる。本来、頭の中では処理できるはずなんですけどね。
西:画像やったらレイヤーとしてできますもんね。でも小説となると難しくて、『人間』ではそれをやろうとしてるから脳が揺れる感じがあったのかも。
又吉:思考ってもっと抽象的で、頭の中でいろいろ渦巻いているけれど、それをそのまま再現するとなると、文字が重なっている感じになるのかなと。だから、小説の中でちゃんと会話が成立してて、順序立てて説明されているのが、作家が書こうとした何かの純粋な再現になっているとは限らへんと思うんですよ。
西:そうですね。努力はしただろうけど。
又吉:じゃあ、どうすればそれを小説の中に落とし込めるのかって考えたときに、作家それぞれにやり方があるんじゃないかって思うんです。
西:たしかに本当に自分の心のままに書いたら、訳わからんくなりますもんね。最近トニ・モリスンっていう本当に尊敬してる作家が亡くなって。17歳で彼女の作品に出会ったんやけど、その凄さは長らく言語化できなかったんです。でも作家になって、影響を受けた作家は?って聞かれたときに何度も何度もトライしていたら、トニ・モリスン漫談みたいになってきて、どんどん言語化が上手になっていくんです。そしたら17歳の時に持っていた大切なものを圧倒的に手放した感覚があって。やっぱり文字化するって、整理するっていう呪いから逃れられないのかな。今回もモリスンの追悼文を書いたんだけど、モリスンのこういうところが好きで、こういうところに私は勇気づけられたって書いていたら、異常にスッキリして、もう明日から頑張って生きようって思えてしまって。本当はそんな簡単なことじゃなくて、もっとずっと彼女に肉薄していたのに、書いたことでその距離が適正なものになってしまった。でも、又吉さんはたぶん、限りなく狂気のままで言語化できてる人で、だから『人間』を読んで凄いって感じたのかもしれません。
又吉:書いたことでなにかを手放してしまうというのは僕も一緒ですよ。『人間』の中でも永山と奥が似たようなことを会話していて。クリント・イーストウッドの凄さを、専門家が使ってるワードを駆使して自分が思ってるイメージを組み立てていこうとしたら、急に見失うみたいな。知らん方がよかったわ、みたいなことはあるんですよ。なんでもそうですよね。最初できたことが、練習していったらできんようになるみたいなことはよくある。めっちゃわかりやすく言うと、僕、中学校の時にあるコンビの芸人さんのことがすごく好きだったんですけれど、みんなより見始めるのが遅かったんですね。で、クラスにおったやつが「お前、あれ見た? 見てない? お前、何も知らんやんけ。〇〇は誕生日が何月何日で」って、プロフィールとか2人の出会いとか話すんですけれど、それで「こいつ何もわかってへんな」って思ったんです。見て面白いってわかってたのに、勉強して時代的な背景とか探っているうちに、なんか対象から遠なった、みたいな。
西:『人間』で書いてた、井の中の蛙の話も一緒ですね。
又吉:「井の中の蛙大海を知らず」やけど、外敵が限りなく少なくて自由やから、空見て、星のこと考える余裕あるじゃないですか。だからむちゃくちゃ哲学的に進歩すると思うんですよ。でも、大海に行ったら外敵だらけやし、他のすごい奴に食われへんように気をつけながらその場その場を一生懸命に生きてるから、宇宙見る余裕なんてほとんどない。そういうことが僕らの生きてる社会にもすごくあるんじゃないかって。
西:たしかに。「お前、何も知らんやん」って言ってくる外敵の魚に翻弄されると、好きだった芸人さんを見ることすらしなくなるかも。
又吉:たとえば、社会保障制度の内容が変わるみたいな話になると、すぐに世代間の争いみたいになったりするじゃないですか。それも言葉の整理にすごく支配されてしまっていると思うんです。つい自分の世代の視点からいろいろ批判したりしてしまうけれど、60代~70代は自分の親の世代やで、90代はおばあちゃんの世代やで、同世代は兄弟やし、下の世代は子供やでって考えると、境界が曖昧になるというか、もう少し違う見方になるんじゃないかなと。自分の痛みと同じように人の痛みを考えるのは難しいと思うんですけれど、たとえば家族や恋人についてだったら、自分の痛みを越えることもあるじゃないですか。だから、自分は誰かで、誰かは自分だって考えることもできるやんって思うんです。
西:それをこの世代はこうで、この世代はこうだからって言葉で整理しちゃうから、できないっていう結論が出てしまうんですね。
又吉:奥とナカノタイチが争っていた、「芸人なのか、作家なのか」という肩書きの問題もそうですけど、両方でええやんって思うんですよ。どっちもやりたい時にやるのが楽しいし、面白いやんって。それが人間やと思うんです。
(取材・構成=松田広宣)
■書籍情報
『人間』
又吉直樹 著
価格:本体1,400円+税
発売/発行:毎日新聞出版