ジョン・ウィリアムズ、新海誠……現代映画における物語と音楽の“完全同期” 1970年代、GOBLINが覆した常識を再検証

GOBLINが覆した映画音楽の常識

 映画を思い出す時、私たちは映像だけを思い出しているのではない。音も同時に思い出している。

 『ゴジラ』と聞けば、巨大な怪獣の姿とともにあの重低音の行進が脳内を支配する。『男はつらいよ』は、寅さんの顔と同時に、あの主題歌のイントロが勝手に流れ出す。あるいは、物語の細部を忘れてしまったとしても、『菊次郎の夏』のように「Summer」のピアノだけは忘れない。映画音楽は、場面を盛り上げるための“BGM”ではない。映画そのものの記憶になる。極端に言えば、私たちは映画を“観て”覚えているのと同じくらい、“聴いて”覚えている。そもそも映画音楽は、画面のなかで何をしているのか。仕事は大きく3つに整理できる。

 第一に、感情の誘導。『E.T.』で自転車が夜空へ浮かぶ瞬間、観客の胸を持ち上げているのは映像と同じだけ、あのオーケストラの上昇である。第二に、時間の操作。『ジョーズ』の二音の反復は、まだ何も起きていない海面を「もうすぐ何かが起きるまでのカウントダウン」に変えてしまった。たった二音で、である。第三に、空間の構築。『ジュラシック・パーク』で初めて恐竜を見晴らす谷は、あの雄大なテーマが鳴り出さなければ、あれほどのスケールを獲得できなかったはずだ。今挙げた3つは、すべてジョン・ウィリアムズひとりの仕事だ。ひとりの作曲家が、映画音楽の3つの役割を丸ごと体現してみせたのだ。

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 そして、この仕事を劇伴作曲家ではなく、バンドや電子音楽家が丸ごと引き受ける作品は、決して珍しくない。日本のアニメーション映画において、RADWIMPSが新海誠監督作品の常連となり、物語の構造そのものと音楽を同期させているのは、その例だ。だが、この発想を1970年代にすでに実行していた集団がいる。彼らは、バンドという形態を維持したまま映画に直接接続され、映画内の恐怖も、時間も、空間も、すべて自分たちの演奏する楽器によって構築してしまった。それが、イタリアのプログレッシブロックバンド・GOBLINである。

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 なぜ、恐怖映画の巨匠ダリオ・アルジェントは、伝統的な映画音楽の作曲家ではなく、当時は無名に等しかった若きロックバンドを選んだのか。当時のイタリアは、世界的に見てもプログレッシブロックの先進国だった。シンセサイザーという新しい楽器が手の届くものになり、クラシックの教育を受けた若者たちが、オーケストラではなくバンドを組んだ。1974年、クラウディオ・シモネッティとマッシモ・モランテを中心に結成されたGOBLINも、この土壌から出てきたバンドだ。

CLAUDIO SIMONETTI'S GOBLIN

 一方のアルジェントは、恐怖映画を現代の映画として撮ろうとしていた作家である。モダンな建築、ガラス、ネオン、都市の夜。その画面に古めかしいオーケストラを流せば、映画は一気に古い映画へ引き戻されてしまう。実際、彼が『Profondo Rosso』(1975年)で当初望んだのは、DEEP PURPLEの起用だったという。それは実現せず、緊急の代役として白羽の矢が立ったのが、ほぼ無名のGOBLINだった。与えられた時間は10日ほど。にもかかわらず、そこから生まれたタイトル曲はイタリアのチャートで1位に駆け上がり、劇伴が“劇”を離れてヒットチャートを制圧してみせたのだ。

 日本の観客にとって、GOBLINとの出会いは時系列が逆だった。日本では『サスペリア』が1977年、「決して、ひとりでは見ないでください。」のコピーとともに公開されて大ヒットし、その成功を受けて、製作年では先行する『Profondo Rosso』が『サスペリアPART2』(1978年日本公開)としてあとから届いた。そしてそれは、ある意味で正しい順序だったのかもしれない。GOBLINの方法論が最も結晶したのは、間違いなく『サスペリア』だからだ。制作の過程からして倒錯している。通常、劇伴は撮影と編集を終えたフィルムに“あとから”つけられる。だが、『サスペリア』では撮影に先立って楽曲群が用意され、アルジェントは現場でそれを大音量で流しながらカメラを回した。音楽が映画に付けられたのではない。映画が音楽のなかで撮影されたのだ。

 では、その音楽はなぜ怖いのか。映画の冒頭を再生してみよう。暗い画面に打楽器の連打が雪崩れ込み、絶叫のような弦とシンセサイザーがせり上がり、飽和した瞬間――ぷつりと断ち切られて、タイトルとともにあの高音の旋律が囁き声を連れて始まる。最初の1分で、観客の耳はもう掴まれている。何が起きているのか。音を、層ごとに剥がしてみたい。

 いちばん上の層に、旋律がある。チェレスタという、鉄琴のような高音を放つ鍵盤楽器が、くるくると回るように反復される。ほとんど子守唄だ。だが、この旋律は終わらない。オルゴールのように同じ場所を回り続ける反復が、音楽から時間的な前進を奪い取っていく。子守唄の反復が眠りに落とすためのものなら、こちらは覚めない悪夢に閉じ込めるための反復だ。この音楽は、まず時間感覚に触れる。

 その無垢な高音のすぐ下で、声が鳴っている。2種類の声だ。ひとつは、メロトロン。鍵盤を押すと、あらかじめ録音された合唱のテープが再生される楽器――つまりその“声”は、いまここにいない誰かの声である。楽器の仕組みそのものが、すでに幽霊的なのだ。もうひとつは、囁き。メインテーマの背後で、声にならない声がざわめき続ける。時折、「Witch!」(「魔女!」)という単語が聞き取れる。この声はどこから聞こえているのか。スクリーンのなかからか、客席のすぐ隣からか、わからない。声は恐怖を宙吊りにしたまま、空間そのものを軋ませる。

 さらにその下では、床が鳴り始める。シンセサイザーの重低音が観客の身体を下から圧迫する。そこへ、タブラ、ブズーキといった民族楽器が乱打される。整ったリズムは安心を生むが、この打撃は加速と失速を繰り返し、拍を数えさせない。それはもう伴奏ではなく、乱れた心拍だ。気づけば、観客自身の身体が、音楽の振動によって直接的に鳴らされている。

 こうして層が積み上がる。無垢な子守唄と、幽霊の声と、正体不明の地鳴り。3つが同時に鳴り、どれが本体とも決められないまま擦れ合う。不協和音である以上に、“無垢”と“悪意”が同じ小節に平然と同居していること自体が、不協和なのだ。耳は、どこを信じればいいのかわからなくなる。

 最後には沈黙。飽和のあとの静寂のなかで、観客は自分の呼吸音を聞くことになる。音楽が退場した数秒間だけ、恐怖の在処が画面からこちら側の身体に移る。沈黙さえ、このスコアの語彙なのである。

 GOBLINは、ホラー映画に音楽を“付けた”のではない。音楽そのものが恐怖だった。『サスペリア』が半世紀近くを経ても色褪せない理由の半分は、この音楽にあるだろう。

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