藤井フミヤ、原田真二、SEKAI NO OWARI、スカパラ×稲葉浩志……日本の音楽が描いてきた“時間装置”への憧れ
2025年9月にリリースされた東京スカパラダイスオーケストラ「タイムカプセル (VS. 稲葉浩志)」は、B'zの稲葉浩志を客演に迎えたコラボレーションシリーズの一曲。谷中敦の詞、沖祐市の曲によるこの楽曲は、“マシン”ではなく“カプセル”という言葉を選んでいる点が興味深い。描かれるのは個人の恋愛的な後悔ではなく、子どもの頃に公園で交わした約束や記憶のなかにしか存在しない誰かを探しに行くという、もっと集合的でノスタルジックな眼差しだ。〈ぼくらはみな大した違いもない〉というフレーズにも表れているように、誰もが小さな悩みを抱えながら生きているという実感に寄り添っている。
幾田りらが2025年12月リリースしたアルバム『Laugh』に収録された「タイムマシン」は、幾田自身が作詞作曲を手がけた一曲。恋人がついたひとつの嘘と、それに嘘で応えてしまった自分自身を悔やみ、できることなら出会う前に戻りたいと願う。過去を消したいほど苦しんでいるという点では、SEKAI NO OWARI「タイムマシン」とも重なる。だが、この曲も最後には、過去をすべてなかったことにはできないという思いにたどり着く。〈タイムマシンが本当に/この世界にあっても/全部なかったことに/なんて出来ないよ/こんな愛した日々を〉と歌われるように、たとえタイムマシンがあったとしても、愛した日々まで消すことはできない。傷ついた記憶のなかにも、たしかに大切な時間がある。この曲における“タイムマシン”は、過去を変えるためのものではなく、別れの痛みを抱えながら、愛した時間の意味をもう一度受け止め直すための想像力として描かれている。
そして、2026年7月8日に配信リリースされたレトロリロンの「ミッドナイトタイムカプセル」は、ここまで取り上げてきた“時間装置”のモチーフを、より切実な自己更新の物語へと引き寄せている。歌詞は、周囲から足を引っ張られているような感覚や寂しさを誤魔化しながらやり過ごす日々への回想から始まり、自分で選んできたはずの人生を、どこか被害者のような顔で語ってしまう矛盾にも目を向けていく。だからこそ、〈描いた夢が僕の手を離さない〉という言葉は、諦めたいのに諦めきれない――そんな人間の生々しさとして響いてくる。
その先で掘り起こされるのが、子どもの頃に心の奥底へ埋めてしまった夢だ。誰かに求められたわけでも、待たれているわけでもない。それでも、もう一度その夢に手を伸ばしてしまう。〈今持てる全てを賭けてゆけ〉というフレーズには、才能が振り向いてくれる保証がなくても、自分の人生を自分で引き受けようとする覚悟が表れている。そして、〈行き着く先が地獄でも構わない〉と言い切るラストは、今作を象徴する一節だろう。ここでの“タイムカプセル”は、過去を懐かしむためのものではない。かつて埋めた夢を掘り起こし、現在の自分をもう一度動かすためのものとして描かれている。ウェスタンスウィングを基調にした軽快なサウンドが、その覚悟を重く沈ませず、むしろ晴れやかに響かせているのも本作の妙だ。
これまで、日本の音楽は“タイムマシン”や“タイムカプセル”というモチーフを繰り返し歌ってきた。そこに映し出されるのは、過去を変えたいという願望、失ったものへの痛み、消したくても消せない記憶、そしてそのすべてを抱えたまま前へ進もうとする決意だ。時間は誰にとっても平等に流れていくものだからこそ、音楽はそこにそれぞれの時代の夢や後悔、祈りを託してきたのかもしれない。これらの楽曲を聴き比べてみることで、“時間”というモチーフがJ-POPのなかでどのように形を変えながら歌い継がれてきたのか、あらためて感じられるはずだ。


























