避難所生活からバークリーへ aiko、木村カエラ、柴田聡子らを支えるベーシスト まきやまはる菜の“後悔しない”生き方

【連載:個として輝くサポートミュージシャン】まきやまはる菜

 木村カエラ、柴田聡子、TAIKING、iri、乃紫などをサポートするベーシストのまきやまはる菜。小学生のときにベースを始め、地元・熊本のジャズクラブで練習やセッションに励み、バークリー音楽大学に進学。帰国後に上京すると、ジャズ、R&B、ファンク、ロックなどを横断するプレイスタイルが多くのアーティストに求められ、まだ20代ながら活躍の幅を多方面に広げている、今まさに注目のベーシストである。10代の頃に熊本地震で避難所生活を経験し、上京後すぐコロナ禍になってしまったりと、その歩みは決して順風満帆ではなかったかもしれない。しかし、そういった経験を糧にして、さまざまな出会いを通じて形成されてきた彼女のキャリアは、多くの表現者を勇気づけるものであるはずだ。(金子厚武)

小学生からジャズの道へ 人生を変えた納浩一の言葉

――ベースを始めたきっかけから教えてください。

まきやまはる菜(以下、まきやま):小学校の部活動に、いわゆる吹奏楽部じゃなくて、ジャズのビッグバンド部があったんです。当時、映画の『スウィングガールズ』(2004年)が流行った影響もあったんですけど、小4の部活動選択でビッグバンド部を選んで。でも、一日遅れて入部しちゃったから、残ってた楽器がベースかチューバの二択だったんですよ。自分は(背が)すごくちっちゃかったので、チューバだと潰されるって話になって(笑)、それでエレキベースになりました。

――中学校では吹奏楽部ではなく地元にあったジャズのクラブに入って、本格的にベースをやり始めたそうですね。なぜそこまでベースにハマっていったのでしょうか?

まきやま:小学校のときは最初の2年間ベースをやったんですけど、最後の1年間はパーカッションになったんです。リズムセクションが人員不足で、ドラムの子が卒業しちゃって、私が1年間だけドラムをやることになって、それがもう悔しすぎて。新しい楽曲をやるたびにオーディションがあって、上手く弾けばベースに戻れるんじゃないかと思ってめちゃくちゃ練習したんですけど、結局そのままドラムで。でもその時間があったからこそ、より「ベースがやりたい」という気持ちが強くなったのかなって。

――やりたくてもやれない時間があった分、中学になってからよりのめり込んだと。

まきやま:中学校の吹奏楽部に入ったんですけど、小学校のときのビッグバンド部の先輩が学校外でジャズのクラブ活動をやっていて、その先輩に誘ってもらって。吹奏楽部をやめてからは、そっちに入り浸っていました。地域のジャズをやってる大人たちが子どもたちに教えるというようなクラブ活動だったので、地元のジャズクラブで定期的にやっているジャムセッションに連れて行ってもらって、人生初のジャムセッションをしたり、地元のジャズ喫茶にみんなでライブを観に行ったり、音楽漬けの生活でしたね。

――その頃からプロになりたいと思っていたのでしょうか?

まきやま:そうですね。中学生のときに「プロになろう」と決めたきっかけがありました。地元のイベントにベーシストの納浩一さん、ギタリストの三吉“sankichi”功郎さんと布川俊樹さんというジャズのレジェンドたちのトリオがきて、その前座で私たちが演奏させてもらう機会があって、そこで初めてプロの演奏に触れたんです。そのときの納さんの演奏に喰らったというか。ギター/ギター/ベースっていう変則的なトリオだったけど、まだ中1だったからそれが変なのもわからず、とにかくすごいと思って。そのときに納さんに「高校を卒業したらバークリーに行きなよ」って言われて、それでプロになりたいと思ったんです。

――納さんもバークリー出身なんですよね。

まきやま:そうなんです。それでまず納さんを追いかけてみようと思って、いろいろ活動していくなかで、いろんな出会いがあって。中学生の頃から熊本大学のジャズ研(ジャズ研究会)に入り浸って、ジャズ研の子たちが代々バイトをするジャズ喫茶があったんですけど、そこに大学生のフリをして入ったり(笑)、そのジャズ研にすぐ行きたいがために、その隣にあった高校を受験したり。高校では大人たちが中心のロックバンドに入るきっかけがあって、そのつながりから派生して日野賢二さんと出会って、そこからR&Bやファンク、ポップスの世界に引き込まれて。

――当時目標にしていたベーシストはいましたか?

まきやま:ミシェル・ンデゲオチェロが私のベースヒーローです。初めて聴いたのが『Peace Beyond Passion』だったんですけど、初めてのジャンル感だったし、すごく重心が低いベースを弾いていて、あのスタイルにグッときて。その頃から私はジャズもロックも、どんなジャンルも好きだったから、それを総合的に学べるのがバークリーだったので、行きたいと思ったんです。

バークリーで学んだ“ラテン音楽”から得たもの

――バークリーに行く直前に熊本地震(2016年4月14日発生)があって、避難所生活も経験されたそうですね。

まきやま:熊本地震があったのが大学の合格が出たタイミングだったんですけど、家が半壊しちゃって、1カ月くらいずっと避難所生活でした。うちは母子家庭だったこともあって、「もう大学には行けないかも」って、自分のなかで悶々としていて。でも不思議なことがあって、家中の物が全部ごちゃごちゃになっているなか、ベースだけ倒れずにスタンドに立っていたんです。それを見て、「弾かなきゃ」ってめっちゃ思ったんですよね。ベースだけ避難所に持っていって、ずっと練習してました。ジャズ仲間たちもみんな避難していたんですけど、落ち着いてきたタイミングで、庭先にちっちゃいアンプとかを持ち込んで、みんなでセッションをして、それがめちゃくちゃ楽しくて。母はたぶんそういうのも全部見ていて、ある日「人生一回きりだし、こういうことがいつまた起きるかわからないから、行っておいで」と言ってくれて、それで(予定通り)行けることになったんです。あの経験があって、「後悔がないように生きないといけない」っていうのを本当に思ったし、音楽がもたらす自然に起きる笑顔とかもすごく実感しました。

――バークリーではラテン音楽を専攻していたそうですね。

まきやま:大学では先生と一対一で行う各々の楽器のプライベートレッスンが必須で、その担当の先生が2人いたんですけど、どちらもラテンのベースの方だったんです。2人ともリズム感もすごいし、楽器のスキルもめちゃくちゃ高くて、その先生たちに習っていたのもあって、ラテンを選ぶことにしました。おかげでリズムについていろいろ勉強できましたね。ラテンにはグルーヴの名前がいろいろあって、そのグルーヴが表現できないと演奏できない曲とかがあるんです。ジャズのスウィングとかフォービート的な感覚ともまた違って。サンバだったらブラジル系だったり、地域性からくるジャンルが結構多くて、そのグルーヴの基礎をドラムとかパーカッションのパターンから学ぶことが多かったので、それを勉強していました。

――小学校で1年間ドラムだったのが、そこで活きたかもしれない(笑)。

まきやま:今ラテンをやってるかというと、全然やってないんですけど(笑)。でも、大学ではコンガを専攻した授業とかもやってたりして、ベース以外のドラムとかパーカッションに触れる機会がめっちゃ多かったので、耳を鍛えることができたなって。ベースだけじゃなくて、ドラムやパーカッションの感覚も勉強することができたのは、きっと今につながってるんじゃないかと思います。

――バークリーから熊本に戻ってきて、その後に上京したんですよね。

まきやま:上京して1年くらいでコロナ禍に入っちゃったんですけど、その前は知り合いが全然いなかったので、下北沢のrpm(ミュージックバー)に入り浸っていました(笑)。そこでつながった人たちは、今も仕事で会う人たちが多くて、PAJAUMI(パジャマで海なんかいかない)もrpmで出会ったチームだし、BREIMENの高木祥太さんとかもrpmで出会いました。

――この連載では、以前ドラマーの上原俊亮さんもrpmの話をしてくれました(※1)。

まきやま:ちなみに、私が俊亮くんと知り合ったのもrpmです(笑)。ちょうどコロナ禍前くらいに、セッションがものすごく盛り上がっていたんですよね。今ポップス系のサポートをやっていたり、バンドで有名になった人たちも、まだお仕事が落ち着いている時期というか、まだ20代前半とかで、その頃はrpmでゴリゴリに演奏していて。そういうのが好きな世代がたまたま集まったのかも。

――きっといろんな理由がありますよね。海外でまたジャズやネオソウルが盛り上がったり、日本でもSuchmosみたいなバンドが出てきたり、トレンドも関係してたはずで。

まきやま:そうですね。あとは(バーの)マスターがつなげたがりの人で、「一緒にやってみない?」みたいに声をかけてくれて、そういうのも大きいかもしれない。私たち世代の近しいプレイヤーはみんなrpmで知り合いを作ったんじゃないかなと思います(笑)。

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