『蓮ノ空』夢を追いかけた3年間の軌跡がここにある それぞれの想いが詰まった“102期卒業アルバム”の物語
“102期生”乙宗梢、夕霧綴理、藤島慈ーーソロ曲が描くかけがえのない想い
そんなアルバムの最後を飾るソロ曲は、3曲とも102期生の集大成でありながらエピローグであり、プロローグとなるに相応しい楽曲となっている。
まず、梢が遺したのは、彼女の変え難い生き方を鋭い言葉とともに込めた「be proud」。アンデルセン童話の『人魚姫』に準えた、何を差し出しても夢を叶えられず、泡のように消えてしまう可能性を綴る歌詞は、一見悲壮感すら感じられるかもしれない。だが、力強いバンドサウンドとともに届けられる言葉に悲壮感は感じられず、むしろ「これが私の生き方だ」と誇っているようだ。他人に言葉は尽くせても、自身のことはよくわかっていなかった梢が、ここまで自己をさらけ出せるようになったことに涙を禁じ得ない。
同時に、夢を追いかける上で伴う痛みすら大事に抱え歌う様は、彼女が憧れた人魚の本質を突いているように感じる。アンデルセン童話の『人魚姫』は、自身の目的のために声と引き換えに人間の足を手に入れた。その足は、歩くたびにナイフで突き刺されるような痛みを伴う――だが、それは人であることを望んだ人魚に課せられた罰ではない。人は生まれてから死ぬまで、誰もが痛みを伴いながら歩き続ける。であるなら、人魚の両足に走る痛みは、彼女が苦しみを抱えながらも進む人間らしさを獲得した何よりの証明ではないだろうか? 同じく、梢が夢を追う中で感じ続ける痛みは、罰ではなく彼女が「自分の誇れる自分」であり続けている証なのだと思う。
続いて、綴理が鳥籠を飛び出した先の自由と、幸せを歌う「幸せのリボン」。DOLLCHESTRAとして綺麗ではない感情すら歌詞として発信し、同じく生き辛さを抱える誰かを救ってきた彼女が、誰でもない“夕霧綴理”のためだけに残す楽曲だ。それまでのDOLLCHESTRAの曲と打って変わったあたたかなバラードは、この曲そのものが涙を流す綴理を守る傘になってくれるような存在なのだと伝えてくれる。同時に「AWOKE」を思わせる、大胆に拍子が変わる2番や、豊かなストリングスとバンドサウンドからは、彼女がDOLLCHESTRAであった証拠を感じられるのではないだろうか。
スクールアイドルになることを望み、隣に立ってくれる誰かを探していた綴理にとって、“卒業”がどれほど勇気のいることだったか計り知れない。だが、どれほど勇気を出して踏み出そうと、世界は劇的に変わったりはしないのだ。〈キミが居ないだけだった〉と歌う声からは、一抹の寂しさや、いつも通りの明日がやってくる安堵が感じられる。制服を脱ぎ、矢印のない校庭の外へ出ても、綴理の人生は何事もなかったかのように続いていく。だが、そんな日々も〈幸せ〉だと感じられることが、綴理が見つけた幸せであり、日々を彩るリボンなのだろう。
そして、『藤島慈盤』の最後を飾るのは、慈とめぐ党の愛のキャッチボール「やっぱ天使!」だ。疾走感のあるロックチューンとともに届けられる歌詞と、ライブで「打ってくれ」と言わんばかりのコールを聴けば、この曲がもはや語るまでもなく“めぐちゃん”と“めぐ党”の曲であるとわかる。ちなみに、差し込まれるコールパートだが、聴くだけでなくぜひ歌詞カードも読んでみてほしい。“!”の数を数えればクスッとすること間違いなしだ。
そんな本楽曲の特筆すべき点は、やはり落ちサビの“アンコール”だろう。ライブ会場ごと持ち帰ろうなんて到底不可能に思える想像も、叶えられないのは「自分の力不足だ」と言い切ってしまえる純粋さ。少女が“再会”するために、めぐ党へ助力を求める意味は何なのか? 単純な話、再会とは片方の都合だけでは叶わないからだ。彼女は再会を祈って待つよりも、自ら会いにきてくれるような強かな存在である。だが、当然再会相手を見つけられなければ再会は叶わない。だからこそ、彼女はアンコールを求め続けるのだろう。世界のどこにいてもめぐ党を見つけられるよう、高く高く目印を掲げていてほしい、と。記憶は色褪せていくことを知りながら「忘れないで」と願ったように、このアンコールもきっと彼女の可愛いわがままの一つだ。
このように、どれをとっても彼女たちが3年間で確立した自己と、獲得した気づきが詰まった楽曲となっている。それはスクールアイドルの肩書きを手放しても、彼女たちが3年間で得たものは不変であると教えてくれているようだ。寂しさも、ともに歩んだ軌跡のあたたかさも内包した本作。その軌跡には、たしかに蓮ノ空のこと好き好きクラブのみなさん(ファンの呼称)もいたことが、それぞれの誇りになっていると嬉しい。