ソニーミュージックグループ社長 村松俊亮氏が初めて明かす、今は亡き“真のライバル”への思い【評伝:伝説のA&Rマン 吉田敬 最終回】
ティーン向け昼ドラタイアップを開拓 39歳でのSR代表就任
その後、村松氏は西日本エリアの重要拠点である関西地区のエリアプロモーションを束ねる販促課長として大阪に転勤となった。
「刀折れて、矢が尽きて……という状態での異動でした。しかし、大阪転勤になって初めて部下ができて、楽しくワイワイやってたんです。だけど、楽しむだけではなく、そろそろ仕事で結果を出さなきゃまずいな、何か爪痕を残さないと、と思い始めた頃、東京では敬さんが怒涛のようにドラマ主題歌を獲得していて。東京のドラマに入り込むのは無理だなと感じていた時、たまたまMBS(毎日放送)のドラマのプロデューサーと飲む機会があったんです。そこで、夏休みは高校野球に視聴率が集中するので、高校野球を見ないティーンの女子をターゲットにしたドラマを作ろうと考えているという話を聞いて。“新しい試みだから村松ちゃんにタイアップを任せるよ!”と声を掛けてもらった。これはいい爪痕を残せるかもしれないと思い、“是非やらせてください!”と」
そのドラマがMBS制作の昼ドラ、TBS系ドラマ30『ふしぎな話』(2000年)である。当時としては珍しいオムニバス形式で制作されたドラマで、各週ごと舞台となるロケ地を変えて収録を行い、TBS系列の各ローカル局がその制作をサポートした。そこで村松氏が主題歌として提案したのは、ドラマのターゲットである同世代女子に向けて、北海道北見市出身で平均年齢14歳のガールズバンドとして注目を集めていたWhiteberryに、80年代に活躍したJITTERIN’JINNのヒット曲「夏祭り」をカバーさせるというものだった。夏休み期間中の2カ月、月曜から金曜まで毎日主題歌としてオンエアされ、ティーンを中心に楽曲が浸透。ターゲットに絶大な支持を得たこのドラマとの相乗効果で、楽曲もスマッシュヒットする。タイアップ効果を実感した村松氏は、翌年の同枠のタイアップも獲得すべくMBSのプロデューサーに直訴するが、次は名古屋のCBCテレビ制作のドラマになるという情報を入手する。毎年、この枠は大阪MBSと名古屋CBCで交互に受け持つのだという。
「その情報を入手した翌日、名古屋に飛んで行きました。次の年のその枠は人気シリーズ『キッズ・ウォー』の第3弾が準備されていたんだけど、MBSと同じコンセプトでターゲットをティーンに変更して、母親役の生稲晃子から娘役の井上真央を実質上の主人公にして描くことが決まっていた。とにかく若いアーティストの主題歌が欲しいということで、2001年デビューのガールズバンド、ZONEをプッシュした。主題歌に起用された『secret base~君がくれたもの~』はデモを聴いて、良い曲だけど地味な印象があってちょっと心配したが、これが爆発的にヒットした」
夏の昼ドラをきっかけに2年連続の新人ブレイクが達成され、一気にこの枠が業界の注目の的となったが、翌年のMBS制作ドラマ『ドレミソラ』(主演:黒谷友香)の主題歌を獲得したのは敬さんだった。敬さんがソニーミュージック内に分社化して立ち上げたレーベル、デフスターレコーズの新人アーティスト、YeLLOW Generation「北風と太陽」が主題歌となったのである。
「次の年は、敬さんに嗅ぎつけられて取られてしまった(苦笑)。僕もその頃、Soffio Recordsに異動したばかりで提案できるアーティストがいなかったので、プレゼンもしなかったんだけど、遠慮がない人だなと(笑)」
村松氏は、こうした大阪販促時代の活躍が認められ、ソニーレコーズ内にできた新たなレーベルSoffio Recordsの代表に就任することとなった。
「敬さんのデフ(デフスター)が次々とヒットを出す中で、結果を出しても給料は上がらないし、組織も大きくならないという愚痴をデフの連中からよく聞いていた。結果を出しているところを羨ましく思いつつ、当時の自分は所詮サラリーマンなので楽しくやれればいいかなというスタンスだった。自分のレーベルでは宣伝時代からの部下10人ぐらいに自由にやらせておいて、自分自身はそのモチベーションを重視しながら事態を静観していた。そんなある日、榎本さん(榎本和友氏。当時ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役社長)に呼び出された」
榎本氏からの内示はソニーレコーズの代表就任要請だった。会社を代表する“長男レーベル”のトップ就任招請に村松氏は一瞬耳を疑ったという。
「榎本さんに理由を聞いたら、その時のソニーレコーズは殺伐としていて、人の足の引っ張り合いで誰も信じられないという感じだったし、何よりZONE以来ヒットも出ていなかった。だけど、村松のところだけは少なくとも楽しそうにみんな上を向いて、前を向いてやっている。その雰囲気をSR(ソニーレコーズ)で作ってくれと」
39歳の大抜擢だった。敬さんがデフスターの社長に就任したのも39歳。その頃のソニーミュージックは、敬さん率いるデフスターの快進撃を契機に、レーベルを分社化させ、若い社長を抜擢し、一気に世代交代を図ろうとしていたのかもしれない。
「敬さんの成功がなければ、僕の出番はなかったのかもしれない。そしてターニングポイントとなったのはORANGE RANGEだった。Soffio時代に契約の内定までこぎつけていたORANGE RANGEを社長就任直後のソニーレコーズのトッププライオリティにした。“まずは僕がSoffioから持ってくるこのアーティストだけやってください。1年経って芽が出なかったら自分の立場も含めて諦めます”と。レーベル全体に動いてもらった」
村松氏が背水の陣で臨んだORANGE RANGEは、2003年7月にリリースした2ndシングル『上海ハニー』で大ブレイクを果たすことになる。
敬さんとの“感性勝負”だった
その半月後、2003年8月1日に敬さんはソニーミュージックを去り、ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役社長に就任する。
「敬さんの中には、やっぱり不満もあったのだと思う。しかし、彼を放逐するというか、会社を辞めることを容認するなんてことは、あり得ないと思うんですよ。僕も今社長をやっていますけど、僭越ながら僕が敬さんの上司だったとしたら、何があっても辞めさせていないです。だから、当時はそういう会社だったのかなと、残念だなと思います」
敬さんがソニーミュージックを去った年の4月にアニメーションを中心に幅広いビジネスを手掛けるアニプレックスが創立され、その翌年にはソリューション部門が統合され(製版部門とデザイン部門が統合されてできたソニー・ミュージックコミュニケーションズが、録音部、特販部、工場、倉庫部門などを統合。現在のソニー・ミュージックソリューションズの前身となる)、会社はシナジー効果を発揮しながら、大きな変革期に突入していく。
「敬さんがそのまま会社に残ってくれていたら、そんなインフラをおもちゃのように自由自在に扱っていたんじゃないかと思うんですよね。一緒にやっていたのか、淘汰されたのか……そうなったら僕は今の立場にいなかったかもしれないですけど。でもこの会社はさらに面白いことになっていたと思います。敬さんがそのおもちゃを使ってどんな遊びをしたのかなって」
その後、村松氏はソニーレコーズの代表として、様々な場所でワーナーミュージックの社長となった敬さんと遭遇するが、お互いが昔のように屈託なく会話を交わすことはなかったという。
「敬さん、何でこんなに冷たくなったのかなって。大谷(大谷英彦氏。ソニー・ミュージックエンタテインメント取締役執行役員/ソニー・ミュージックソリューションズ代表取締役※第3回、第6回連載参照)や藤原など、敬さんのかつての部下たちは、ワーナーミュージックについていかなかった。僕のビジネス領域が増えていくなかで、彼らが僕の部下になっていったこともあり、それに関してやるせない思いもあったのかもしれない。そんな時、福岡で音楽塾ヴォイス(主宰:西尾芳彦)のパーティーがあった。僕はカミさんと共に招待されて。カミさんからすれば昔の敬さんを知っているし、結婚式にも来てくれていたので挨拶したら完無視された。ということもあった」
このエピソードは、部下だった僕らの間でも敬さんの“大人気ないエピソード”として知られているが、当時はそれぞれがライバル会社として競合し、戦っていて、その舞台となったヴォイスでも村松氏率いるソニーレコーズからはYUIが先行してデビュー。敬さん率いるワーナーミュージックからは絢香がデビューし、まさに火花散る状態だったことも加味して考えなければならない。村松氏もそのことを前向きにとらえていたようだ。
「光栄とは言わないけど、敬さんに意識してもらえているんだ。自分もそれだけの存在になれたんだなとも逆に思いましたね。「三日月」(絢香)と「CHE.R.RY」(YUI)は、同じタイアップ(KDDI au「LISMO」CMソング)で売れたし、芸能事務所とのタイアップにおける取り組みなど、手法を真似した真似されたじゃないけど、そういう部分では争っていたんだなと。でも、そんなことはどうでもよくて。争うべきはむしろ僕と敬さんの共通点。音楽的な専門知識はないけど、だからこそ一般ユーザーに近い自分の感性だけは信じて、自分の心にギュッときたり、自分の涙腺がゆるんだりしたことを信じて、音楽を発掘したり、楽曲をより良くすべく制作担当と模索するところなんだなと思った。その部分は不思議なぐらい合致していたので、ある種僕らの感性勝負というか。それぞれが色々なアーティストを手掛けましたが、ユーザー目線での勝負だったんだなというのは、振り返ってみてすごく感じましたね」