飯島真理は音楽とどのように向き合ってきたのか ベスト盤を機に聞く、40年のキャリア

飯島真理聞く、40年のキャリア

海外への手応えも感じ始めたムーン時代

飯島真理
2023年、ビルボードライブでの写真

――ムーン移籍後初のアルバム『Coquettish Blue』(1987年)は、山下達郎さんプロデュースの予定だったそうですね。

飯島:スタジオで一緒にデモも作ったんですよ。たしか2曲作って、そのうちの1曲が「Baby, Please Me」で、あの曲は達郎さんもすごく気に入ってくれたんです。でも、このタイミングで、移籍したのにずっと大物ミュージシャンの方にプロデュースしてもらうままでいいのかなって思い始めたんです。もちろん、達郎さんの大ファンだったし、素晴らしいと思ったのですが、結局自分で集めたミュージシャンとレコードを作ることになりました。達郎さんには、本当に申し訳ないことをしてしまいました。後でお手紙を書いてお詫びしました。

Baby,Please Me

――移籍後はグンと大人っぽくなったというか、その後の活動の起点のような作品だと思います。

飯島:たしかに、最初の『Rosé』があって、その次に『Coquettish Blue』、そしてずいぶん後になるんですけれど『Europe』(1997年)の3作がターニングポイントかもしれません。私自身も『Coquettish Blue』のボーカルはすごく気持ちよく聴けるし、初めて自分でプロデュースしたこともあって思い入れはありますね。

――ムーンに移籍してからは洋楽志向という言葉が正しいのかわかりませんが、『KIMONO STEREO』を発展させたような海外録音が増えますね。

飯島:確かにロンドンレコーディングの時から、海外に目を向けるようになったかもしれない。マックス・ミドルトンが「なぜ日本でしかリリースしないんだ?」って認めてくれたのは大きかったですね。『Coquettish Blue』も日本で録音したけれど、ニューヨークからミュージシャンを呼んで作ったから、インターナショナルなイメージです。

――次の『Miss Lemon』(1988年)からはロサンゼルス録音が増えますね。

飯島:『Miss Lemon』に関しては、ミュージシャンをコーディネートしてもらったのですが、誰にアレンジャーを任せようかと考えている時に聴いたデモテープをすごく気に入ってしまったんです。それが後のパートナーになるジェームス・ステューダーのバンド。このアルバムもレコーディングの後半ではみんなノリノリで作ってくれて、もしかしたらアメリカでも行けるかもってその時にちょっと感じたんです。

――そうやって人脈を広げながら海外でしっかりと制作環境を作っていったのはすごいですね。『My Heart In Red』(1989年)ではTOTOのメンバーも参加しています。

飯島:私はTOTOと一緒にアルバムを作ったんだ、なんて自慢するようなタイプではないんですが、亡くなってしまったジェフ・ポーカロとセッションした音が残っているということは、自分にとってもすごいことだなと思います。

――『It's a Love Thing』(1990年)もそうですが、このあたりの一連の作品は、やはり海外を見据えていたのでしょうか。

飯島:アメリカでレコード契約を取りたいとずっと考えていました。もちろんそのために作っているわけではないし、日本のファンの方もいらっしゃるし。でも移住して音楽活動をするからにはそこは頑張らなきゃと思っていました。

――この当時、ヴァン・ダイク・パークスの『東京ローズ』(1989年)に参加されていて驚いたのですが、どういう経緯だったのでしょうか。

飯島:その頃のことを考えると本当に幸運だったのですが、『My Heart In Red』に参加してもらったシンガーのジュリー・クリステンセンが、ヴァン・ダイク・パークスのレギュラーメンバーだったんですよ。彼女が私のことを気に入ってくれて、ヴァン・ダイクに推薦してくれたんですね。アメリカで活動していると、そういうこともあるんですよ。

――『Sonic Boom』(1995年)には、バート・バカラックと共作曲の「Is There Anybody Out There?」が収められていますが、これも何かきっかけがあったのでしょうか。

飯島:当時は渋谷系ブームで、ワーナーのディレクターから「渋谷系やりなよ」なんて言われていたんです。「そんなのとっくにやっているけど」と思いながら(笑)、そのアイデアの流れで音楽出版社からバート・バカラックのストック曲がいくつかあるっていう話になって、その中に「Is There Anybody Out There?」があったんです。書き下ろしてもらったわけではないのですが。このレコーディングは、ウンベルト・ガティカというエンジニアに歌録りしてもらって、とても緊張しました。セリーヌ・ディオンのプロデューサーでもあるし、比べられるわけですよ。世界一の歌姫と(笑)。「8テイク歌ってくれればいいから」といわれて、8回歌ってそそくさとスタジオを出ました(笑)。出来上がりが良かったので安心しましたけれど。

――それにしても、アメリカで生活しながらこれだけのクオリティを保って制作を続けるのは、精神的にも相当タフでないと続かないのではと思ってしまいます。

飯島:あの頃はまだレコード会社と契約していて予算もあったし、それほどプレッシャーはなかったですね。さっき『Europe』がターニングポイントだと言いましたが、その頃に夫婦の危機もやってきて(笑)、音楽的にも転換期だったんです。それで、この作品から本格的にセルフプロデュースを行うようになりました。

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