DOPING PANDA×the band apart、21年ぶり対バン企画を前に特別対談 ソロ活動を経て強固になったバンドとしての自覚
DOPING PANDAが目指したシーン、the band apartに訪れた転換点
――the band apartも孤軍奮闘していた時期もあると思いますが、今のFurukawaさんの話を聞いてみていかがですか。
荒井:この5年くらいで交流が増えたなと思うことはたくさんあるんですけど、若い頃は周りが褒めてくれることに踊らされていた時期があったんですよ。雑誌とかで「孤高のバンド」みたいに書かれて、「孤高かぁ……」みたいな(笑)。「孤高ってことはミステリアスでなきゃいけないのかな」とか「あまり喋らない方がいいのかな」とか決めつけすぎて、自分がわからなくなっちゃって。たぶん20代終わりから30代の頭ぐらいまでそんな感じでした。でも、誰かが言ってくれたことって悪気があるわけじゃないし、別にそれと実際のバンドが違ってもいいよなって開き直ってからは、あまり外からのイメージを気にしなくなりましたね。むしろ、このバンドはイメージと違うことが強みなんじゃないかなと思ってる節もあるし。
木暮:ちょっと質問とズレちゃうけど、俺がバンドで一番デカかったと思うのは、震災(東日本大震災)を経て日本語詞にしたことで。それまで日本語詞をちゃんと聴いていたのはラップくらいだったから、自分で日本語詞を書いてみて、アジカン(ASIAN KUNG-FU GENERATION)みたいな日本語で歌っているバンドのことをようやく心からリスペクトできるようになりました。インディーズでずっと英詞でやってきたし、荒井が言ったみたいに2000年代は“特殊な音楽性のバンド”みたいに言われてきたから、そういうところに知らず知らずのうちにアイデンティティを見出していたんだけど、いきなり自分たちの欲求で日本語に変更して、1回ぐちゃぐちゃになったところから本当のバンドの思春期が来た気がする。
――スタートラインに立ち直すような転換点だったと。
木暮:1970年代に内田裕也がやっていたフラワー・トラベリン・バンドと、はっぴいえんどとかの間で日本語ロック論争があったけど、それとちょっと似ていて。俺らは内田裕也サイドで自分たちの道を貫いてきたけど、いきなりはっぴいえんどの方に転換したみたいな。
Furukawa:アジカンとかの日本語ロックがはっぴいえんどサイドってことね。
木暮:そう。まあ俺らの場合は小規模なやつだけど(笑)。
――Furukawaさんには以前、『AIR JAM』全盛の影響を受けた世代だからこそ、英詞じゃないとライブハウスに出られなかった時代があるという話もしていただきました(※1)。
Furukawa:そうそう。ブッキングの人から「なんで英語で歌わないの?」って聞かれて、「いや、日本人なんだけど……」と思ってました。けど、本当に英詞じゃないとブッキングされなくて、これじゃマズいと思って英詞パンクをやったんですよ。90年代終盤、パンアパとかHAWAIIAN6と知り合ったのもその頃です。ただ、発音もめちゃくちゃだし、喋れないのになんで英語で歌うんだろうっていうコンプレックスはずっとありましたよ。なんなら、先輩たちのバンドも無茶苦茶な発音でしたから(笑)。
――それでドーパンは日本語詞になったのも早かったんですね。
Furukawa:メジャーに行ってからすぐ日本語の曲も書きましたから。とはいえインディーズから英詞でやってきたバンドでもあるから、メジャーデビューしてからは英語のディレクターを入れて、一緒に歌詞を書いてもらって、発音の練習までやりながら英詞でも歌ってましたけど。
――日本語詞の話もそうですけど、DOPING PANDAはもともとパンクシーンにいたところからダンスロックを取り入れて、徐々に別の場所へと移っていきますよね。
Furukawa:そうなんですよ。バンアパと一緒だったらそれまでのパンクとは違うシーンに行けると思ったのに、今度はバンアパがパンク勢とガッツリやるようになっていくんですよね。TAGAMIさんが「パンクオフなことをやるなら、バンアパと一緒にライブやりな」ってよく言ってたんだけど、気づいたらバンアパがHAWAIIAN6とかLONG SHOT PARTYとかとイベントを回るようになっていて。
荒井:まあ、それも単純に仲良かっただけなんだけどね。
――FurukawaさんがDOPING PANDAで作りたかったシーンというのは、具体的にどんなものだったんですか。
Furukawa:ちょうどアジカンとかストレイテナーの名前が出始めた頃だったんだけど、そことも少し違うんですよ。もっと洋楽由来のバンドなんだけど、『AIR JAM』の影響下じゃない音楽をやりたいなとずっと思っていて。ちょうどその頃にTahiti 80やPhoenixを教えてもらって聴いていて、そういう音楽性でシーンが作れたらいいなと思っていた矢先に、バンアパのデモテープを聴いてびっくりしたという時期でしたね。それですぐにダンスロックという発想はなかったけど、もっと腰にくる音楽をやりたいなと思って。
――腰にくる音楽……!
Furukawa:なんかパワーワードみたいになっちゃったけど(笑)、ちゃんとストイックにいい音で、演奏が上手い音楽をやりたかったんですよ。
――90年代に盛り上がった海外のロックはNirvanaからPavementまで、いわゆるヘタウマなバンドが多いですよね。でもFurukawaさんのルーツにはLed Zeppelinとかがあるし、オリジナリティを出すために流行りとは違うロックシーンを目指したということでしょうか?
Furukawa:そうですね。友達のPAに頼んで、友達のスタジオで録るみたいな感じじゃなくて、ちゃんとプロと一緒に仕事して、めちゃくちゃいい音の作品を出したいという気持ちがありました。その反骨心で、メジャーに行こうという決心もして。ただ、俺はカリスマみたいに人を惹きつけることができなくて、蜘蛛の子を散らすように周りから人がいなくなっていくタイプだったから(笑)。自分でシーンは作れないなと気づいてから、DOPING PANDAとしてメジャーで売れるんだっていうマインドに変わっていきましたね。
――そこに関してthe band apartはいかがですか。ジャンルレスに混ぜ合わせながらも、従来のミクスチャーとは全く異なるオリジナリティを持っていて、演奏力も高いという意味では、当時DOPING PANDAが作ろうとしていたシーンと共振するところもありそうですが。
荒井:まあ、俺らは演奏が難しそうに見せてるだけだからさ。そう思ってくれてるならラッキーだなっていうくらい。シーンに対して云々っていうことは一切なくて、この環境とメンバーがこういうバンドにしてくれただけだから、ある意味恵まれてますよね。考えずに済んだから。
Furukawa:だからこそかっこいいんだけどね。だって、実際すごいことをやっていて、こんなにもオリジナリティがあるのに、なんで前面にアピールしないんだろうと思ってたもん。
木暮:そこはもうちょっと中高生の部活ノリに近いというか。できた曲がいいなと思ったから、友達に聴かせてびっくりさせたいなっていう感じで、すごく内向きな発想でバンドやってます(笑)。その時にたまたま好きで聴いてる音を、日記みたいに4人とも自分なりに取り入れてくるから、なんとなくミクスチャーっぽく聴こえてくるんだと思うけど。もう25年も一緒にやってるから、バンド自体が1つのトータルコンプレッサーみたいになっていて、気まぐれな作曲をしても、4人を通すことでなんとかまとまっちゃうんだよね。だからバンアパって、基本的に曲をボツにすることがなくて。
Furukawa:そうなんだ。
荒井:多少は力技になっても、4人で形にできちゃうからね。特に昨年に関しては、ツアーが始まっちゃってるからボツにしようがなかったんだけど(笑)。
Furukawa:リリースが間に合ってないのに、リリースツアーをやってたバンドだもんね。