【浜田麻里 40周年インタビュー】第4弾:度重なるレーベル移籍で芽生えた反骨精神 9年ぶりのライブ復活への想いや、9.11など社会不安が制作に与えた影響

「環境が底辺まで落ちたのだとしたら、這い上がるしかない」

――そうでしたか……。一方で、制作を進めていた『Philosophia』自体についてはどんな印象でしょう?

『Philosophia』

浜田:『Philosophia』では、とても内省的な世界に没入したと思います。ツアー休止以降、哲学や精神分析学に非常に興味が沸いてきたんですね。人間の心の不可思議さ、なぜ人はこういうふうに変わってしまうんだろうとか、人の言動の根源をどうしても知りたくなりました。それは同時に、自分の心の安定剤としての役割も兼ねていたんだと思います。制作自体は、敏腕エンジニアのビル(・ドレッシャー)との仕事でしたので、基本的に不安はありませんでしたが、アメリカの国立公園でMVを撮影したりと、かなり贅沢に仕事ができていた前半とは打って変わり、最後は1人になりました……。スタッフとまったくコミュニケーションを取らなくなっていたどころか、マネージャーに話しかけても返事すらかえってこない状態で。ただ、ツアーをやめたことによって多少の時間ができたおかげで、プライベートな面では家族の健康状態について病院とやり取りしたり、精一杯のことができたと思います。父は脳出血の後遺症で“全失語”と診断されていたんですが、カードを使ったリハビリを家族内で行い、かなりコミュニケーションが取れる状態まで脳機能が回復したんですね。どうして脳神経の回路が復活したのか不思議でした。父のリバビリのための勉強をきっかけに、脳科学にも興味が湧いてきたんです。そんな日々を辿りましたので、“知を愛する”という意味の“Philosophia”をタイトルにしたんですよね。今から考えると、人間不信の塊のような状態から、“知の世界”で救い出された気がします。

――当時、リリースされたアルバムを聴いたときに、すごく暗くて。いまだにその印象があります。

浜田:まぁ、1曲目が「Eclipse」から始まったら暗いかな(笑)。あの曲は好きなんですよね。世紀末の危機感を表現したかったんです。すごく暗いと思うかどうかは、やはりリスナーの年代、精神状態によると思いますね。2000年問題とか、社会が何かしらの不安を抱えていた時期なんです。リスナーの皆さんがお若く溌剌とした時期だったならば、時代の危機感は薄かったはずです。私の作品はどうしてもその時代観がベーシックな背景になります。心持ちとしては、暗い気持ちというよりも早く1人になりたいと思っていたくらいなので(笑)。状況に負けるつもりはありませんでした。

――自分の内面を一つひとつ言葉にしていったような落ち着いた作品ですよね。

浜田:「Since Those Days」では、それまでと違う歌詞をあえて意図的に書いたんです。“何かを掲げて生きるほど、人は強くなくていい” と。

――『Philosophia』のリリース後は、次作の『Blanche』(2000年2月)の制作に入っていきますが、いろんな心の葛藤を抱えての活動だったのかなとも思うんです。

『Blanche』

浜田:いや、結果的に1人になった時点で完全に肝は据わったので、まったく動じてなかったと思います。ライブの再開も徐々に念頭に置き始めましたしね。事務所を自ら辞めていった人以外とは心の繋がりもありました。契約社員など、事の流れ上、辞めざるを得ない人たちもいたんです。全員が反旗を翻したというのとはちょっと違うんですね。だから、心の繋がりが消滅した社員を抱えていく憂鬱が消えて、背負っていたものを下ろせたとも言えるんです。

 ただ、忖度なのかわかりませんが、まったく身に覚えのない悪い噂を立てられるようになったりで、環境は最悪でしたね。初めてお会いした年上のレコード会社内の管理職の方に「あなた評判悪いね〜」って、直接言われたり(笑)。契約が始まった時点から、離れることがほぼ決まってるわけですよ。

――それは『Blanche』を出す頃ですか?

浜田:『Philosophia』の制作後から『Blanche』の頃の契約期間はずっとそうです。でも、まぁいいやと思って(笑)。そういう状況にまでなると、人って本当に肝が据わりますよ。そういえば一人だけ味方がいて。ポリドールで一番優秀と言われていた女性社員を担当にしていただいたので、彼女と2人で仕事をしていました。私を引き抜いた社長さんの密かな取り計らいだったのだと思います。

――『Blanche』は作品としてどう振り返ります?

浜田:内省からエネルギーが少し外へ向き始めた感じです。「やるぞ!」と意気込んでいたと思います。だから、レコーディングも全部自分で仕切って。ドラムだけは日本で打ち込みの作業をして、あとはアメリカで進めるような変則的な形を取りました。それこそ予算組みからブッキングまでのすべてを自分でやったので、完成したときはすごく達成感がありました。事の経緯を今みたいに俯瞰できてはいなかったですけれど、世の中の不条理へのストレスが、歌詞などにも表れてますね。当時のファンクラブの会報を何かの機会に目にすることがあったんですけど、新年の挨拶が怒りに満ちてて(笑)。

――個人的には特に印象深い作品の一つでもあるのですが、レコード会社との関係が上手くいっていないのだろうなとも感じました。

浜田:上手くいっていないどころの騒ぎではなかったです(笑)。でも、音楽ってそんな感じですよね。やっぱりアーティストっていうのは、作品の中で何かをぶつけているようなところがあると思うんです。それでバランスを取って昇華させるんですよね。それが、リスナーの方々のそれぞれの心情や経験に合致すれば、伝わる曲になるというか。だから『Blanche』はタイトルの言葉通り、真っ白なところからスタートしようと思ったんですよね。

――すごく意思の強い白ですよね。

浜田:そうですね。『Persona』『Philosophia』『Blanche』って傍から見たら苦しいメンタルに追い込まれた時代ではあると思うので、暗黒時代の三部作みたいに言うファンの人もいますね(笑)。周囲からの誤解や状況の変化で、環境が底辺まで落ちたのだとしたら、もう這い上がるしかないわけですから、目指す方向はひとつなんです。悩む必要がないということですよね。これほど強い時代はない、と私は思います。

――そして『Blanche』リリース後、契約満了の形でポリドールを離れることになり、制作面に関して言えば、再び次なる道を模索していくことになります。そこで新たに契約をしたのが、トライエム(徳間ジャパンコミュニケーションズ)でした。

浜田:契約期間が終わる頃、私を不憫に思った人たちが、次の落ち着き先を探してくれていたようで、何人かの業界の方とお会いしました。当時はヴィジュアル系のバンドが流行していて、一時的に成功した業界人も多かったんですが、追い込まれた大人のアーティストである私に強い興味を示してくれる方はいなかったですし、「この人となら」と思える方も正直いませんでした。そんなとき、徳間ジャパン系のトライエムへの移籍の話が持ち上がったんです。私のことを心配してくださっていた音楽評論家の方の伝手で紹介され、新しいレーベルとその仲介をするレーベルマネージメントの協力会社が決まりました。

 トライエム制作部の部長さんが、私のアルバムを若い頃から聴いてくださっていた方で、「ぜひに」と言っていただけたんです。とても誠実な方で、それまでに出会ったメーカー幹部とは全く違う人間性の方でした。大変失礼な言い方にはなってしまいますけど、それまでの所属レコード会社と比較すれば、徳間の音楽部門の規模感はあらゆる意味でどうしても小さくなってしまうことはわかっていました。それも含めて部長さんは正直に説明してくれたんです。私はそのときの身の丈で精一杯のことをやろうと思いました。同時に、自分が多忙な時期に疎遠になってしまったミュージシャンたちにもコンタクトを取り、あらゆる関係者との気持ちの立て直しをしていきました。

――それは『Blanche』のリリース後に?

浜田:『Blanche』の制作を一人で立ち上げた頃からです。もちろんトライエムに決まった後も。それは次の制作のためでもありますし、ライブ活動を休止していましたから、新たに立ち上げるバンドとの関係性もありますよね。ミュージシャン、アレンジャー、アメリカのレコーディングに関わる人たち、フィナンシャル系の人も含めて、今までは仲介人にお任せしていたものまで、自分がすべて1から関係を構築していくことにしたんです。その流れでできたのが『marigold』(2002年3月)なんですね。

――トライエムはMidget Houseという新しいレーベルを立ち上げて、その第1弾アーティストとして麻里さんを迎え入れたんですよね。会社としても特別な存在であると認識していたからこそだったと思います。

浜田:はい。それこそ“HM”(デビュー時に本人の預かり知らぬところで進んでいたプロジェクト)の話じゃないですけど(笑)、Midget Houseというレーベル名は、私の名前のイニシャルに引っ掛けたみたいなんですね。最初はそのレーベル長さんが一所懸命にやってくださるということで、「Frozen Flower」ではMIZUNO「SUPERSTAR」のCMタイアップを決めていただいたりもして。

 ただ、そこまではよかったんですけど、2枚、3枚と出すうちに、人間というのは状況に負けてしまうところがあるのか、結局は短い期間でMidget Houseは消滅することになりました。徳間さんからいただいた私の制作費を、レーベルに新たに所属することになったアーティストの経費に使われてしまいまして(笑)。最初から騙すつもりではなかったと思いますが、そういうことって、この業界ではよくあることだったんです……。信頼感が崩れてしまうと、もうお仕事の継続は無理ですよね。

浜田麻里「Frozen Flower」【Music Video:Official】

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