【浜田麻里 40周年インタビュー】第1弾:“ヘヴィメタル”を掲げて鮮烈なデビュー 音楽性の確立やイメージとの葛藤、伝説の『MUSIC WAVE 84』まで振り返る

デビュー直後、本意ではなかったイメージとの闘い

――2作目の『Romantic Night〜炎の誓い』も同年12月にリリースされていますが、年に2枚のフルアルバムというスケジュールも大変ですよね。当時はそれも珍しくないことだったとはいえ。

浜田:あえてすごく速いペースでダダダッと出すことが、企画案の中に入ってたんだと思うんですよね。制作に関して言えば、私はビーイングはよかったと思っていて。あの頃のビーイングって、まだマネジメント事務所みたいなものはなくて、単なる1制作会社だったんです。なので、マネジメントは弟さんの会社(レイズイン)に所属という形なんですけど、制作自体はビーイング仕切りでやってたんですよ。ビーイングは才能のあるミュージシャンを多く抱えている会社でしたし、直接お仕事していたディレクターとは仲も良く、好きにやらせていただいていたし、現場自体に不満はほぼなかったです。その何年後かにはお別れすることになるんですけれど。

――『Lunatic Doll〜暗殺警告』『Romantic Night〜炎の誓い』といったアルバムタイトルは、サブタイトルも含めてインパクトがありますけど、麻里さんが考えていたわけではないですよね。

浜田:違います。たぶん、月光さんあたりじゃないかなと。まぁ、何らかの狙いでわからなくはないですけれども、ちょっと嫌でしたね(笑)。時代というか。

――何かしらヘヴィメタルから想起したイメージではあったんでしょうね。『Romantic Night』はどんな作品だったと思います?

『Romantic Night〜炎の誓い』

浜田:どういうわけか、代表曲となるものがこの2枚目でかなり残ったので、後から思い入れは強くなりました。けど、実はちょっと病気をして、発売日を含めて1カ月入院してたんですね。その分、プロモーション活動が何もできなかったので、当初は不発っぽい扱いをされてたような気はします。ただ、ジャケット写真の服装を見ると、ここから普段の自分がだんだん出てきたなと(笑)。全然ヘヴィメタルとは結びつかない、見た目や性格の二面性みたいなものが表れてきたというか。

――曲も増えましたし、デビュー当時とはライブのやり方も変わってきましたよね。

浜田:そうですね。ライブハウスからホールでのライブになってきて。とはいえ、誰も私がこれから売れていくなんて予想も期待もしてなかったと思うんですよね。ビクターですら、本当に短期決戦で考えてるなっていうのがすぐわかったんで(笑)。もちろん事務所なんてその最たるものでしたし……そうそう、思い出したんですけど、デビューしてすぐの取材が週刊誌だったんですよ。インタビュアーの方は、当時の私から見たらお姉さんなんですけど、今思うとすごく若い人で。取材のときは普通に質問をされていただけなんですね。でも、でき上がった誌面を見てみたら、「見た目も十人並みで、こんな音楽で、どうやってこの業界で生きていくつもりなのか?」みたいなことが書いてあって(笑)、びっくりしました。だから、そういう状況だったってことですよね。私はミス・コンテストの応募者じゃないし、見た目の評はどうでもいいんですけど、最初の取材記事ですよ? ショックですよね。そのときに“こういう世界なんだな”って。だけどライブをやるととても盛況で。だから……この大変な立場をどうしていこうかって思いました(笑)。

――女性シンガーと言えば、ニューミュージックもしくはアイドルといったカテゴリーに括られる時代だったんでしょうね。

浜田:その後にも別の取材で、すごく真面目な雰囲気の、きちんとしたインタビュアーの方と、普通にデビューに至るまでの経緯などを話したんですけど、誌面を見てみたらライブ写真とともに「パンチラがお分かりか」と書いてあって。実際はショートパンツを履いている写真なんですけどね(笑)。事務所は一体、何を考えているのか、こうやって私を売ろうとしてるんじゃないかと疑問が湧いてきて。その後も、若干話題になり始めて、『週刊プレイボーイ』のグラビアの話が来たときも、なるべく露出を多くさせようとするわけですよ。マネージャーぐるみで。でも、それは絶対無理ですと、そのときの編集担当だった方に直談判したんです。そしたら私のことを理解してくださって、その後はその方の口利きで、しっかりとした音楽ページで大きく扱ってくれるようになったんですね。ボーカリストとしても『Player』の人気投票で1位になり始めて、『ARENA37℃』など一部の音楽誌もかなり好意的になってきてました。本来は味方であるはずのヘヴィロック系の音楽誌では、なぜか小馬鹿にされ続けてましたけどね(笑)。

――3作目の『MISTY LADY』(1984年6月)からは、また新たな体制が始まっていくことになりますが、麻里さん自身がプロデュースをした初めてのアルバムという言い方がよくなされますよね。

浜田:はい、一応そうです。すでにヘヴィメタルだけでは括れない、もうちょっと度量を広く持った、そのままの自分を出していこうと思い始めたのが、やっぱり3枚目ぐらいですかね。

『MISTY LADY』

――このときは、作曲を誰に依頼するかということも麻里さんが判断したんですか?

浜田:そうですね。ここから付き合いの始まる大槻(啓之)さんは、ビクターの私のA&Rからご紹介いただいて。大槻さんもアーティストとしてビクターからアルバムなどを出していた頃だったので。

――大槻さんは1曲目の「Paradise」を書かれていますよね。

浜田:そうですね、「Paradise」は大きかったです。自作曲は今思うと、シンプルすぎるぐらいシンプルな曲ですけど……その当時はパチッとカセットで録音するような時代で、そういうところから曲作りも始めたんです。松澤さんやその周りの方々には、ギターのリフをどう絡めていくかとか、かなり助けてもらいました。

浜田麻里「Paradise」

――「Misty Lady」と「Fly On Wings」は麻里さんが初めて作曲を手掛けていますが、それまでも曲作りはしたことがあったんですか?

浜田:本格的ではないですけど、ニューミュージック系の音楽でデビューするっていうときにも、自分で曲を作り始めたり、歌詞を書き始めたりはしていました。

――楽器は何か習得していたんでしたっけ?

浜田:一応、ギターを弾いたりとか、子供のときはやってたんですけど、極めたものはないんですよ。そこが私の弱いところで。あのままギターをずっとやってたら、今でもリフを自由自在に考えたりできただろうなと思うんですけどね。(学生時代にやっていた)MISTY CATSでもギターを弾きながら歌うこともあったんですけど、もう歌だけで大変すぎて(笑)。

――逆にそれが今となってはいいところもあるのかもしれないですね。特定の楽器の奏法による手癖に頼らない、音の並び、メロディなどが生まれてくるはずですし。

浜田:あぁ。歌うっていうことに関しては、そうかもしれないです。コードっていうのは、私の頭の中では単音が積み重なっているんですね。作曲やアレンジでコードを構築する際に、ミュージシャンは単音では聴いていないんだっていうのにびっくりすることがよくあって、それで時間がかかったりします。

――コードの和音そのままを聴いていると。

浜田:そう。自分にとっては単音のかたまりなんですね。構成音を全部言えるので、このメロディを活かすには、基本コードからアディショナルでこの音を乗せないとダメだとか、オミットしなくちゃダメだっていうのがわかるんですけど、ミュージシャンってそういうところがちょっとアバウトなんですよね。自分が何か楽器を極めていたとしたら、どっちかというとそういう耳じゃなくなっていた可能性もありますよね。

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