小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード4 アンティーブーモンテカルロ 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード4

 村井邦彦と吉田俊宏による小説『モンパルナス1934〜キャンティ前史〜』エピソード4では、川添紫郎(浩史)が伊庭家の人々と交流を深め、ゴールドスミス氏主催のダンスパーティーを訪れたり、バレエ・リュス・ドゥ・モンテカルロを観覧するなどして、「インプレサリオ」という仕事に興味を抱いていく。背景では、第二次世界大戦の足音が迫りつつあった。(編集部)

※メイン写真:モンテカルロ

『モンパルナス1934』特集ページ

エピソード4
アンティーブーモンテカルロ ♯1

「お帰りなさい、パパ」
 ベルリン旅行から帰った伊庭簡一を玄関で真っ先に迎えたのは、次女のシモンと愛犬タローだった。長女のエドモンドと妻のガブリエルが続き、最後に紫郎があいさつした。
「お帰りなさい、伊庭さん。初めまして。川添紫郎と申します。お世話になります。いや、もう昨日からお世話になっています。しばらくご厄介になります」
「シロー君、よく来てくれたね。深尾さんから丁寧な手紙をいただいて、事情は承知しているよ。かなり昔の話だが、お父上の川添清麿さんにもお会いしたことがある。三菱銀行の役員をされていた頃にね。それから君の実のお父さんにもお世話になったんだよ」
「えっ、後藤の? 猛太郎ですか」
「そうそう、猛太郎さん。お名前の通り、猛烈なお人だったなあ。さすが幕末の志士、後藤象二郎の息子という男気のある人だった。あの人の血を引いているんだから、シロー君、君も相当に猛烈な男なんだろうなあ。あっはっは」
 白人女性と結婚して外国暮らしをするくらいだから、相当にハイカラな優男なのだろうと想像していた紫郎は、精かんな顔と引き締まった体つきの簡一を前にして、少々面食らった。優に50を過ぎているはずだが、年齢を感じさせるのは月代(さかやき)を剃ったように後退した額ぐらいで、先のとがった鷲鼻と鋭い眼光は、まさにこの人こそ幕末の志士といった風貌だ。
「そうよ、パパ。本当に猛烈なのよ、シローさんは。驚いちゃったわ。例のカールトンの水泳大会でアメリカ人やドイツ人たちの連合軍をやっつけちゃったんだから」とエドモンドが言った。
「アメリカとドイツの連合軍かい? そいつは現実にはありそうにない話だな」
「シローがフランスチームに加わってくれて、アンカーで泳いで逆転勝ちしたのよ」と今度はシモンが言った。ようやく彼女が自然に話すのを耳にして、紫郎はうれしくなった。
「ふうむ、そいつは確かに猛烈だ」と簡一が感心したところで、カンヌ駅まで父を迎えにいったマルセルと半袖の開襟シャツを着た若い日本人が大荷物を抱えて入ってきた。2人とも汗だくになっている。
「おお、暑いところすまんな。まだ夕食まで時間があるし、どうだ、男たちだけで食前酒でも飲まないか。エドモンド、すまないがパスティスとオリーブを用意してくれ」と簡一が言った。
「ああ、シロー君、彼を紹介しておこう。住友の社員の万城目(まんじょうめ)君だ。普段はパリに駐在しているんだが、ヨーロッパを旅するときはいつも同行してくれる。京都帝大の独文科だからドイツ語もできるし、ロシア語も少し分かる。優秀な男だよ」
「シローさん、初めまして。大阪にいた頃は深尾さんにお世話になりました。お困りの際は、何でも言ってください」。万城目は長身を折り曲げるようにしてあいさつした。つるんとした童顔だから若く見えるが、30歳を超えているかもしれない。九州の訛りが少しあるなと紫郎は思った。

 広い居間にL字形に置かれた革張りのソファーに、簡一、紫郎、マルセル、万城目の4人が腰かけた。開け放した窓から海風が入ってくる。遠くからセミの鳴き声が聞こえるが、日本では聞き慣れないノコギリを引くような鳴き方だ。リズム感が悪いなと紫郎は思った。シモンが運んできたパスティスの栓を開け、万城目が3人のグラスに琥珀色の液体を注いだ。
「パスティスはご存じですか」と万城目が言った。
「いえ、初耳です。見たところウイスキーのようだけど違うんですね」
 簡一とマルセルがニヤニヤしながら紫郎を見ている。
「まだ飲まないでください、シローさん。これを水で割ります。1対5ぐらいが普通ですが、それでよろしいですか」。紫郎が「はい」とうなずくのを確認して、万城目はよく冷えた水を彼のグラスに注いだ。
「あれっ、白くなった」と叫んだまま、しばらく不思議そうにグラスを凝視している紫郎を見て、簡一とマルセルが笑った。
「シロー君、水を足すと白濁するのがパスティスの特徴なんだよ。昔、フランスではアブサンという香草のリキュールが愛飲されていたんだが、あれはマルセルが小さい頃だったから20年ぐらい前かな、製造も販売も禁止されてしまってねえ。それで最近、アブサンの代用酒としてパスティスが登場したんだ。南仏ではおなじみの食前酒だよ」
 一口飲んで、紫郎は顔をしかめた。
「あはは、苦いですか」とマルセルがまた笑った。
「いや、苦いというか、変わった香りがするね。干し草のような……。とにかく初めて経験する香りだよ。しかし、慣れてくると癖になりそうな気もする」
「おっ、いいぞ。シロー君は南仏の食文化に馴染めそうだな」と簡一が言った。
「あのう、伊庭さん、日本からのお土産があるんです。お帰りになってからお渡ししようと思って、昨日は開封しませんでした」と言いながら、紫郎が唐草模様の風呂敷包みから画板を取り出し、新聞紙の間にはさんでいた絵を簡一に渡した。
「ほお、これは木版画だね。多色摺りの浮世絵だ。これを私に? うれしいねえ。どうもありがとう。雪の増上寺に和傘の女性がいて……。うん、朱色と白の対比が見事だ。これは広重? いや、違うな。しかし、実に素晴らしい」と簡一が感嘆の声を上げた。フラ・アンジェリコと葛飾北斎をロビーに飾るくらいの主人だから、美術に造詣が深いのだろう。
「これは江戸時代の浮世絵ではなく、大正時代に始まった浮世絵のリバイバル運動から生まれた新版画です。作者は川瀬巴水。たぶん伊庭さんと同じくらいの年齢ですよ。おっしゃる通り、今様の広重と呼ばれて、広重のように風景画を得意にしています」と紫郎が説明した。
「つまり、最近作られた新しい浮世絵なのですか」と万城目が訊いた。
「はい。何年か前、銀座に店を構える渡辺庄三郎という浮世絵商と知り合いましてね。深尾の親父の関係で。渡辺さんは自ら版元になって、彫師、摺師という分業体制を復活させたんですよ。川瀬巴水のような優秀な日本画家を目ざとく見つけてきて、巴水に今様の広重役をやらせ、美人画の得意な画家には今様の喜多川歌麿や鈴木春信になれと言い、役者絵が得意な画家には東洲斎写楽や歌川豊国になれと言って、次々と新作を海外に輸出しているんです」
 マルセルは半分も理解できないといった顔でパスティスをちびりちびりと舐めていたが、簡一は大きくうなずいて「つまり、その渡辺さんは優れたプロデューサーなんだな。インプレサリオだ。まるでディアギレフじゃないか」と言った。
「ディアギレフ?」と紫郎が首をかしげると、簡一は「セルゲイ・ディアギレフというロシア人でね。何年か前に亡くなったんだが『バレエ・リュス』というバレエ団を率いてヨーロッパやアメリカを席巻したんだよ」と解説した。
「バレエですか。僕は『白鳥の湖』しか知りません」と紫郎が苦笑した。
「クラシックバレエとはまるで違うんだよ。私はパリとモンテカルロ、それにロンドンでも何度か見たんだが、素晴らしかったよ。彼らはいつも新しいことに挑戦していたからね。何しろストラヴィンスキーやサティが新曲を書いて、ココ・シャネルが衣装をデザインして……」と簡一が言うと、マルセルもその話なら任せておけとばかりに「ピカソやマリー・ローランサンが美術を担当し、ジャン・コクトーが台本を書いたりもしました。僕は実際には見たことはありませんが、ニジンスキーという素晴らしい男性のダンサーがいたんです」と付け加えた。
「肝心なことはね」と簡一が解説を続けた。「ディアギレフは自分では踊らないし、振り付けもしないし、曲も書かないんだ。しかし、芸術に関しては大変な目利きでね。ダンサーのニジンスキーに振り付けをやらせて彼の才能を開花させたり、ストラヴィンスキーの作曲能力にいち早く注目して曲を依頼したりした。ディアギレフがいなければ、何も始まらなかっただろうね。彼のような存在をインプレサリオというんだ。渡辺さんもまさにインプレサリオだ。写楽の時代でいえば、版元の蔦屋重三郎もそうだな」
 やはり簡一という人物はただ者ではなさそうだ。その博識と洞察の深さに紫郎は感服した。同時に「インプレサリオ」という仕事にも強く魅かれた。自分では踊らない、振り付けもしない、曲も作らない。しかし、その人物がいなければバレエの公演は成り立たない。面白いじゃないか。紫郎は今のやり取りを深く心に刻んだ。

ディアギレフ(左)とストラヴィンスキー(右)

「ところでパパ、ドイツはどうでしたか」とマルセルが訊いた。
 2杯目のパスティスを自分で作りながら、簡一は「うーむ」とうなりながら2度、3度と首を振った。向こうでエドモンドが気をきかせて蓄音機でレコードをかけた。紫郎に向かって「これよ、これ」と口の形だけで言いながら、アルバムを抱えてタイトルを指さしている。チャイコフスキーの「白鳥の湖」だった。
「ドイツの状況は深刻だよ。少なくとも私はそう感じた。SA(突撃隊)の連中が一気に粛清されたというニュースは世界中に伝わったはずだから、君たちも知っているだろう。あれは衝撃的だったよ。悪逆の限りを尽くしていた暴力組織が壊滅させられて、ドイツの国民はどこかホッとしているような空気だったが、彼らは状況がよく分かっていないんだ」と簡一がぼやいた。
「状況といいますと?」と紫郎が身を乗り出した。
「ヒトラーはSAを持て余していたんだ。それで腹心のSS(親衛隊)とゲシュタポ(国家秘密警察)を動かして、レーム以下SAの幕僚や反ナチス分子を一掃したんだ。一国の首相が公然と大量虐殺をやったも同然じゃないか」
「伊庭さんはそういう情報をどうやって仕入れるのですか」と紫郎が言った。
「ヨーロッパの各地にいろいろとネットワークがあってね。それ以上は企業秘密だ」。簡一は意味ありげにニヤリと笑ってオリーブをかじった。
「つまり、これからはゲシュタポとSSがSA以上に非道の限りを尽くすであろう、ということですか」と紫郎が尋ねた。
「のみ込みが早いね。そういうことさ。ご存じの通り、ヒトラーは昨年、何とかという長い名前の大統領令を強引に決めたね。万城目君、何といったかな」
「はい。あれは確か『ドイツ民族に対する裏切りと反逆的陰謀を取り締まるための大統領令』でしたね」と万城目が即答すると、マルセルが目を丸くして「さすが万城目さん」と言った。
「総選挙でかなりの議席を獲得した共産党は、その大統領令に則る形で全議席をはく奪されたんだ」と簡一が言った。
「完全にヒトラーの独裁体制が確立されたわけですね」とマルセルが嘆くと、簡一は少し首をかしげながら「いや、完全にというわけではないな。SAという獅子身中の虫を退治した今、ヒトラーにとって頭の上にのしかかっている唯一の重しがヒンデンブルク大統領閣下なんだ。しかし閣下は最近、とみに衰弱しておられると聞いた。心配だよ」
 男たちの空気がよどんできたのに気づいたのか、タローがトコトコと寄ってきて、マルセルの足元にうずくまった。
「しかし、さすがにドイツ国民が黙っていないでしょう」とタローの頭を撫でながらマルセルが言った。
「いや、どうやらそうでもないんだ。なあ、万城目君」
 簡一に促された万城目は「つい昨年あたりまでドイツ国内の失業者は600万人ともいわれていましたが、ここにきて急速に失業率が改善しているんですよ。この勢いなら数年のうちに完全雇用が実現されると私はみています。ドイツの人たちもヒトラーの負の側面をある程度理解し、内心では恐怖を覚えながら、背に腹は代えられないという思いもあるのでしょう」とラジオのアナウンサーのように整然と応えた。
「それになあ、万城目君、あのヒトラーの演説はすごいよな」
「はい。途中で何度もつっかえながら話していますし、話も論理的ではありません。だから決して演説がうまいというわけではないのです。しかも、あのガラガラ声でがなり立てるわけですからね。しかし、催眠術にも似た不思議な効果があるのでしょうね。私も何度か聴いたことがありますが、周りにいる聴衆がだんだん恍惚状態に陥っていくのが分かります。大勢集まれば集まるほど、その効果は高いようです。とても危険ですね、ヒトラーという男は」と万城目がきっぱりと言った。
「問題はだね、シロー君。国際連盟を脱退して世界の孤児になっているのが、そのヒトラーのドイツと我が大日本帝国の2か国だけということだ。まさか世界大戦が2度あるとは思えないが、なんだか嫌な予感がするんだよなあ」と日の落ちかけたカンヌの海を見ながら、和歌を吟ずるような調子で簡一が言った。

「誕生日おめでとう、シモン」
 大人たちは南仏バンドール産の赤ワインで、主役のシモンはミントシロップを水で割ったマンタローで乾杯した。
「さあ、14歳になった感想をどうぞ」とマルセルに背中をたたかれたシモンは顔を赤くして「えーっ、感想? み、皆さん、どうもありがとう。やっと14歳になりました。今日をもちまして、もう子ども扱いはおしまいにしてください」と言って笑った。
「ははは、ほら、シモン。パパからのプレゼントだ。どうだい、子ども扱いなんてしていないだろう?」
 ココ・シャネルの麦わら帽子だった。
「わあ、素敵ね」とシモンの顔にパッと花が咲いた。少女から大人になろうとしている彼女にとっては最高のプレゼントだったようだ。
「実は今回、パリにもちょっと行ってきたんだよ。シャンゼリゼ通りの住友の事務所で万城目君と合流して、カンボン通りのシャネルまで行ってね。なあ、万城目君」と簡一が目配せすると、万城目は少々うろたえた顔をして「あっ、は、はい」と答えた。
 万城目は芝居が下手だなと紫郎は思った。麦わら帽子は万城目がパリで買ってきて、ベルリンで簡一に合流した際に渡したのだろう。エドモンドが紫郎の目を見て「あなたも気づいたのね」という顔をしてクスクスと笑った。
 ディナーの主菜は子羊のもも肉のロースト、ジゴ・ダニョーだ。付け合わせの茹でたインゲンが鮮やかな緑の輝きを放っている。前菜のメロンとポルトに始まって、南仏の新鮮な野菜のサラダなど、すべて出張料理人のシェフが腕を振るったという。リッツ・ロンドンで働いていたが、引退して故郷のカンヌに戻ってきてからは、時折伊庭家に出向いて料理をさせてもらっているとシェフが自己紹介した。
 さすがにジゴの焼き加減は絶妙だった。薄いピンク色に染まった肉を薄めにスライスして、ロースト中に出た肉汁をたっぷりかけて食べる。芳醇な赤ワインにぴったりだ。フランスの食生活の豊かさに紫郎は感心した。
「パパ、パリの大使館の様子はいかがでしたか」とマルセルが神妙な面持ちで切り出したから、紫郎は「おや」と思った。
「ああ、いや、ちょっと時間がなくてなあ。今回は大使館に寄る時間はなかったんだよ、また今度ゆっくり話してくるよ」と簡一も珍しく狼狽して答えた。パリに行ったのがウソだとしても、あんなに慌てる必要はないだろう。
「マルセルは絹江さんのお気持ちを知りたいのです。シローさんはまだご存じないかしら」とエドモンドが言った。
「いや、何も……」と言葉を返そうする紫郎を遮って、マルセルが「エドモンド、余計なことは言わないでください。僕はそんなつもりで尋ねたのではありません」と言って顔を赤くした。こういうところはシモンに似ている。やはり兄妹だなと紫郎は内心で笑った。そうか、マルセルはパリの大使館に勤める役人の子女に恋をしているのか。

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