小説『モンパルナス1934~キャンティ前史~』エピソード4 アンティーブーモンテカルロ 村井邦彦・吉田俊宏 作

『モンパルナス1934』エピソード4

エピソード4
アンティーブーモンテカルロ ♯3

 1週間後の7月14日、紫郎は伊庭家の人々と地中海沿岸のアンティーブに向かった。カンヌから東へ、車で30分もかからない。古代ギリシャの植民地アンティポリスとして始まり、古代ローマ帝国に併合された時代もある。2000年以上の歴史が塵のように降り積もった要塞都市だ。細い石畳が迷路のように続く旧市街を抜け、アンティーブ岬の突端近くにあるヴィラ・クローエに到着した。簡一の友人、フランク・ゴールドスミスが夏の別荘にしている白亜の大邸宅だ。
 正門から庭園に至るアプローチはオリーブの並木道になっている。よく手入れされた庭園には清楚な白いバラが咲き乱れ、その先の小さな林に囲まれた一角はラベンダー畑になっている。最盛期を迎えた薄紫の可憐な花々が甘い香りを放っていた。
「ここは何度来ても素敵ね。タローも連れてきてあげたかったわ」とシモンが言った。愛犬は伊庭家に出入りして家事の手伝いをしているポルトガル人のロペス夫妻に預けてきたのだ。
「ようこそ、皆さま」。カールトンの水泳大会の表彰式で、ゴールドスミスの代理人として登壇した背の高い中年の白人が一家を出迎えてくれた。彼は紫郎に顔を寄せて「あの日は素晴らしい泳ぎでした。そしてダンスも」と小声で言った。どうやらダンスパーティーも見にきていたようだ。
 カンヌの伊庭家の3倍はあろうかという広い居間は、天井も室内で椰子の木を育てられそうなくらいに高く、大劇場の緞帳(どんちょう)と見まがうような長いカーテンがかかっていた。窓際に置かれた人間の腰の高さほどの伊万里焼の大壺がひときわ目を引いた。
「カンイチ、よく来てくれたね。さあ、ゆっくりしてくれたまえ」。柔和な笑みをたたえた堂々たる体躯の白髪の紳士が現れ、美しい発音の英語で言った。早稲田第一高等学院で英語を教えていた外国人講師の中に「これはアメリカの中産階級風、これは英国の労働者階級風、これはオーストラリアの……」と様々なタイプの英語の物まねを披露して、生徒にとても人気のあったカナダ人がいたのだが、あの講師の十八番でもあった「英国の上流階級風」の英語にそっくりだと紫郎は思った。
「フランク、シロー君を紹介しよう。日本で世話になった人の義理の息子だ」
「初めまして。すでに、あなたの噂で持ち切りですよ、シローさん」
「は、初めまして。シロー・カワゾエと申します。私の……噂ですか?」
「ご活躍はすべて報告を受けています。鼻持ちならないテキサスの石油会社の息子を日本のサムライがこてんぱんに懲らしめてくれたというので、私の知人たちも大喜びなんですよ」とゴールドスミスが言った。あの背の高いアメリカ人は石油会社の御曹司だったのか。
 ゴールドスミスはドイツのフランクフルトで生まれ、英国で育ったが「ビールだけはドイツ製に限る」と冗談めかして言い、ミュンヘンから取り寄せたという白ビールで乾杯となった。
「伊庭さんはどうやってゴールドスミスさんと知り合ったのですか」。紫郎は屋敷の主人に気を使って英語で簡一に尋ねた。
 簡一はゴールドスミスと目を合わせてクスクスと笑い、お互いに「お前から説明しろ」と何度か押し問答した挙げ句、簡一が答えることになった。
「ユダヤ系の人たちは世界中にネットワークを持っている。とても優秀な人が多いから、そのネットワークは強力だ。分かるね? 日本人が国際的な舞台でビジネスをするとなると、いろんな障害にぶつかるんだ。黄色人種というだけで露骨に嫌な顔をする欧米人も少なくない。そんな中でうまくやっていくには、欧米社会に顔のきく良きパートナーが必要になる」
「それは分かります。しかし、パートナーになるきっかけや理由が必要ですよね」と紫郎は食い下がった。
「うーむ、きっかけか。種を明かすと君は笑うだろうなあ。ほら、あの唐獅子牡丹の絵をあしらった古伊万里さ。話せば長くなるが、住友家が持っていた陶磁の大壺を欲しがっている英国人がいるというので、私が手配したんだ。それから個人的に親しくなった。まあ、それだけの話さ。友達関係の始まりなんて、そんなものだろう? しかしね、日本人とユダヤ人の関係をさかのぼれば、高橋是清翁とジェイコブ・シフの関係に行き着くんだ」
「ジェイコブ・シフ……、ああ、日露戦争の際に日本の外債を引き受けてくれた人ですね」と紫郎が答えた。
 ゴールドスミスが大きくうなずいて「そうですよ、シローさん。ユダヤ人を迫害していた帝政ロシアを大日本帝国が倒してくれた。シフが日本に融資したのは、それを期待してのことでした。しかし、最近はヒトラーのせいでドイツが大変なことになっている。国際連盟から脱退してしまいましたしね。そして日本も。何という皮肉でしょう」と肩をすくめた。
「ねえ、フランク。つい先日、ベルリンに行ってきたんだが、いよいよドイツの雲行きが怪しくなってきたよ。ヒトラーに待ったをかけられるのはヒンデンブルク大統領閣下だけだと思うのだが……」と簡一が嘆くと、ゴールドスミスは「もう相当なご高齢だ。長くはあるまい」とポツリと言った。
 横で神妙に聞いていたエドモンドとシモンが同時にあくびをして、あわててかみ殺した。ゴールドスミスが苦笑いして「暗い話ばかりで申し訳ありません、お嬢さま方。今夜はヨットを用意しているんです。カンヌの沖から花火を見物しましょう」と提案した。
「ああ、素敵ですね。今日はパリ祭ですものね」とエドモンドがいつもより半音ほど高い声で歌うように言った。

アンティーブの旧市街と港

 アンティーブ岬の東、カンヌとは反対側に位置する港に停泊しているゴールドスミスのヨットは全長50メートルの大型船で、船長、船員、コック、給仕など、スタッフだけで10人以上もいた。客人は伊庭一家のほか、英国人のようなアクセントのフランス語とフランス訛りの英語を話す中年の某伯爵夫人、アメリカの財閥から嫁いできたばかりの若い某侯爵夫人、ゴールドスミスが支援しているというソ連出身のユダヤ系の若い画家がいた。
 ヨットに乗って地中海から陸側を眺めると、アンティーブの街の向こうにアルプスの山々が見える。まるで舞台の書き割りのようだ。友人を訪ねて富山県の魚津まで行った時に眺めた立山連峰に似ていると紫郎は思った。
 船はアンティーブ岬を回って西に出て、カンヌ沖のサン=トノラ島近くに停泊した。紫郎はマルセルやエドモンドと一緒に泳いで遊んだが、シモンは水着になるのが恥ずかしいと言って、ずっとデッキにたたずんでいた。シャネルの麦わら帽子がよく似合っていた。
 まだ日の暮れる前から夕食が始まった。ルージェという小ぶりの赤い魚をゼリーで固めた冷製の前菜を食べながら「日本でいえば煮こごりですね」と紫郎が日本語で言うと、簡一は「懐かしいねえ」と言ってうなずいたが、シモンはもちろん、ガブリエルやエドモンド、マルセルも煮こごりを知らなかった。メインはローストビーフで、サン=トノラ島の赤ワインが何本も開けられた。
「おい、人を馬鹿にするのもいい加減にしてくれ。冗談じゃないぜ。君は自分がよほど偉いと思っているのか」。昼間から美人の侯爵夫人にしつこく言い寄っていたソ連の画家が、急に英語で怒鳴り始めた。もうワインに酔ったのか、赤ら顔をしている。
「大きな声を出さないでください。皆さんに失礼ですよ」。侯爵夫人がぴしゃりと言った。「誰もが君にひれ伏すかもしれないが、それは君のためじゃない。君の親と旦那の持っている莫大な財産のためさ。君は僕がソ連から追い出されてきた無名の貧乏画家と知ったとたん、鼻で笑ったね。僕がどんな絵を描くのか知りもしないで……。画家の価値は名前が売れているかどうかで決まるのかい? まあ、君にとっては、絵なんてどうでもいいんだろうな」。男は完全に酔っている。どうやら昼間から飲んでいたようだ。
「ニコラ、いい加減にしなさい」。穏やかなゴールドスミスが珍しく声を荒らげた。
「ニコラさん、あの絵はあなたが描いたのでしょう」と紫郎が食堂にかかった油彩の抽象画を指さした。サイズの異なる大きな灰色の正方形が3つ、同じサイズの小さな赤い正方形が5つ、幾つかが重なるように描かれている。背景はゴッホが描いた夜空のような藍色だ。最も大きな灰色の正方形には無数の細い亀裂が縦横に走っていて、裂け目の向こうは黄色に塗られている。
「君は日本人だと言っていたな。確かに、あれは僕の作品だが、いったい君に何が分かるっていうんだ」と男が語気を強めて言った。
「何が分かるかと言われれば、何も分かりませんよ。しかし絵というのは分かる、分からないではない。感じるものでしょう」。紫郎は侯爵夫人の後ろに飾ってある絵の前まで大股で歩いていって「僕はね、ここに入ってきたときから、この亀裂の向こうの黄色がいいなと思って、ずっと眺めていたんですよ。重苦しい世界に裂け目ができて、向こうに明るい希望が見える……。そんなふうに感じるんです」と続けた。
 若い画家は押し黙ったまま、しばらく紫郎を見つめていた。
「シローさん、私も全く同感です。この絵には光明がある。だからここに飾ったのです」とゴールドスミスが言った。「ニコラ、どうだ、分かってくれる人はいるじゃないか。自分を信じて、もっとどんどん描きなさい。続けていれば、きっと道は開ける」
 画家は泣いていた。
「シローさん、皆さん、聞いてください」とゴールドスミスが改まった声で語り始めた。「彼が描いているような抽象や象徴を旨とする前衛的な絵画は、つい何年か前まで、ソ連では高く評価されていたのです。ところがここ数年、権力を掌握したスターリンが前衛芸術を弾圧するようになりました。多くの芸術家が職を失っただけでなく、不審死を遂げたり、捕まって処刑されたりした芸術家もいると聞いています」
「スターリンは西のナチス、東の日本軍を非常に警戒しているらしいね。ベルリンの知人はそう言っていたよ」と簡一がアメリカ式の英語で言った。
「国際連盟を脱退したドイツと日本にはさまれる形になったからね。私の得ている情報では、スターリンはこの状況を打破するために英国やフランス、それにアメリカとの関係改善に動くらしい。ひょっとすると、ソ連は国際連盟に加盟するかもしれない」とゴールドスミスが答えた。
 2人の情報はかなり正確なのだろうと紫郎は思った。世界大戦が終わって16年しかたっていないのに、また歴史が大きく動き始めている。ポール・ヴァレリーの講演録で読んだマグロの血に染まる地中海のイメージが、ふと彼の頭をよぎった。不吉な予感だった。
 北の空が急に明るくなり、一拍遅れてドーンという音が聞こえた。
「始まったわよ、花火」とシモンが叫んだのを合図に、一同がぞろぞろと甲板に出ていった。
 カンヌの浜辺から200メートルほど沖に幾つもの発射台が設置され、陸側からだけでなく、海側からも花火を楽しめるように工夫されている。いつの間にかゴールドスミスのヨットの左右に、大小のヨットが無数に停泊してパリ祭の花火を楽しんでいた。色とりどりの花火も、花火の明かりに照らし出される侯爵夫人の横顔も、なまめかしく、あでやかで、美しかった。ソ連から逃れてきた青年の憂鬱をあざ笑うかのように。紫郎は画家に同情している自分に気づいて、ふーっと溜め息をついた。

7月14日、パリ祭の花火

 翌日は紫郎とマルセルの2人でバレエ・リュス・ドゥ・モンテカルロを見にいくことになった。ディアギレフが1929年に亡くなると、間もなくバレエ・リュスも解散したのだが、モンテカルロ歌劇場のバレエ芸術監督を務めていたルネ・ブルムとロシア歌劇団を経営していたバジル大佐がモンテカルロを本拠地とする新生バレエ・リュスを旗揚げしたのだ。ルネ・ブルムは社会党の下院議員、レオン・ブルムの弟で、同じユダヤ人ということもあってゴールドスミスとは旧知の間柄だった。
「ルネ・ブルムはディアギレフほどじゃないが、なかなかのインプレサリオだよ。しかも明日はストラヴィンスキーの『春の祭典』をやるらしい。見ておいて損はない」と簡一に勧められて、紫郎は「行きます」と即答した。
「明日はツール・ド・フランスの一行がニースを発ってカンヌに到着する日なのよ。カンヌに戻って、一緒にゴールシーンを観ましょうよ」というエドモンドとシモンの強い主張もあっけなく退けた。それくらい紫郎は「インプレサリオ」に魅かれていた。
 モンテカルロは地中海沿岸のイタリア国境近くにあるモナコ公国の町だ。モンテカルロ歌劇場は19世紀にパリのオペラ座を手がけたシャルル・ガルニエによって設計されている。紫郎とマルセルはゴールドスミスが急いで用意したタキシードに身を包み、開演前にルネ・ブルムを訪ねた。
 ゴールドスミスの名前を係員に告げると、ブルム本人がすぐに飛んできた。広い額、長くとがった鼻、口ひげ……。風貌は何度か新聞で目にした兄のレオン・ブルム議員によく似ていたが、口ひげは兄よりきれいに整えてあると紫郎は思った。
「ようこそ、フランクから連絡を受けています。あなたは日本から来たそうですね。日本の文化は素晴らしい。一度でいいから歌舞伎や日本舞踊を見てみたいものですよ」とブルムはフランス語で言った。
「僕の母はダンサーで、日本舞踊もできます」と紫郎が答えると、マルセルが「えっ?」という表情で、シローの顔を見た。紫郎は構わず続けた。「僕はインプレサリオに興味があります。あなたはディアギレフに勝るとも劣らぬインプレサリオだと聞きました」
 ブルムはすっかり上機嫌になって「いやあ、それは光栄だ。ディアギレフは格別にすごい人でしたよ。私はこうやってバレエ・リュスを復活させて頑張っているけれど、彼の代わりは誰にも務まりませんねえ」と笑った。
「ディアギレフさんのどこがすごかったとお考えですか」と紫郎は訊いた。何かを尋ねずにはいられなかった。何かをつかみかけている自分に気づいていたからだ。
「あの人はね、天才を見つける天才だったんです。ニジンスキーやストラヴィンスキーをはじめ、みんなそうですよ。ディアギレフがいなければ彼らの才能は埋もれていたかもしれない。それに金儲けを考えない人でしたね。儲かる演目をやろうという気持ちなんて微塵もなくて、ひたすら上質な新しいバレエをやろうと、それしか考えていなかった。世の中うまくできたもので、彼がお金に困るとパトロンやパトロネスが現れた。社交界の女王ミシアやココ・シャネル……、挙げていけば切りがありません」とブルムは肩をすくめて微笑んだ。

バレエ・リュスのポスター。ジャン・コクトーが描いたニジンスキーの絵

「春の祭典」が始まった。紫郎が生まれた1913年にパリのシャンゼリゼ劇場で初演された作品だが、当時はあまりにも前衛的すぎて「不可解」と受け取られ、不平の声を上げる観客が続出して客席はパニック状態に陥ったといわれる。
 確かに、ダンサーたちの動きは紫郎の知っている「白鳥の湖」のエレガントな踊りとは正反対だった。軽やかに跳躍するのではなく、足を踏みしめ、時に地を這うような動きをする。エキゾチックな衣装も目を引いた。ストラヴィンスキーの音楽は変拍子と不協和音の嵐で、動と静の落差の激しさに紫郎は圧倒され続けた。21年前の観客の多くが「不可解」と拒否反応を示したのもうなずけるが、それ以上に、こんな前衛的な演目をシャンゼリゼ劇場のこけら落とし公演にぶつけたディアギレフの度胸と才覚に、紫郎は改めて惚れ惚れしたのだった。
「シロー、さっきお母さんはダンサーですと言いましたね。シローのママは芸者さんではありませんか」。終演後、ロビーでマルセルが訊いた。
「そうだよ。新橋芸者の中でも、おもんといえば知らぬ人はいない……。まあ、本人がそう言っていたんだけどね。日本舞踊や三味線の音楽が昭和の時代になってもちゃんと残っているのは、芸者衆の存在も大きいんだよ。そう思わないか、マルセル」と紫郎が言った。
「なるほど、確かにそうかもしれません。このモンテカルロ歌劇場で日本舞踊を披露したら、みんな腰を抜かして驚くでしょうね」とマルセルがおどけると、紫郎は急に真顔になって「ここで日本舞踊を? なるほど。いいぞ、マルセル」。紫郎は彼の肩をつかんで大きく揺さぶりながら「いいぞ、いいぞ」と繰り返した。
 2人がカンヌの伊庭家に戻ったのは7月16日の午後だった。前日のツール・ド・フランスの出来事をエドモンドとシモンが興奮気味に話してくれた。最近までカンヌでホテルのエレベーターボーイをしていた20歳の青年、ルネ・ヴィエット選手がトップで故郷カンヌにゴールインし、総合でも3位に浮上したのだという。
 紫郎は自分と変わらぬ年齢の若者が市民を熱狂させたと聞いて「へえ」と思ったが、彼が心底感動したのはその1週間ほど後、カンヌの地元紙の記事を読んだときだった。
「ルネ、リーダーをアシスト」の大見出しとともに、前輪のない自転車の横に膝を抱えて座り込み、涙を流すルネ・ヴィエットの写真が大きく載っていた。フランスチームのリーダーはアントナン・マーニュというスター選手で、ヴィエットはあくまでも彼を勝たせるためのアシスト役だった。ある峠でマーニュの前輪がパンクしたため、彼は自分のタイヤを外してエースに託し、自身はサポートカーの到着を待ったという。さらに翌日も同じようにエースのパンクをヴィエットが救った……と記事は詳細に伝えていた。

 1934年9月末、紫郎は荷物をまとめてカンヌを発った。前日からしくしく泣いていたシモンは「パリにいる間、毎夏、必ずカンヌに来るよ」という紫郎の約束を信じて、ようやく笑顔で見送ってくれた。
 シローはすっかり見慣れた紺碧の地中海を車窓からぼんやりと眺めながら「パリは大丈夫だろうか」とつぶやいた。8月にドイツのヒンデンブルク大統領が逝くと、ヒトラーは大統領職を廃し、自らが首相と大統領を兼務する「総統(フューラー)」の地位に就任した。10日ほど前には「ソ連、国際連盟に加盟」のニュースをラジオで聴いた。世の中は簡一やゴールドスミスが言った通りに動いているようだ。マグロの血のイメージが再び頭をよぎった。
 パリのリヨン駅に降り立ったとたん、紫郎は身を震わせた。コート・ダジュールとは打って変わって、すでに秋本番になっているパリの気温がそうさせたのではない。あの背広の男の影が改札の向こうに見えたからだった。

村井邦彦(Photography by David McClelland)

■村井邦彦(むらい・くにひこ)
1967年ヴィッキーの「待ちくたびれた日曜日」で作曲家デビュー。1969年音楽出版社・アルファミュージックを設立。1977年にはアルファレコードを設立し、荒井由実、YMO、赤い鳥、ガロ、サーカス、吉田美奈子など、多くのアーティストをプロデュース。「翼をください」、「虹と雪のバラード」、「エメラルドの伝説」、「白いサンゴ礁」、「夜と朝のあいだに」、「つばめが来る頃」、「スカイレストラン」ほか、数多くの作曲を手がけた。2017年に作家活動50周年を迎えた。

吉田俊宏

■吉田俊宏(よしだ・としひろ)日本経済新聞社編集委員 
1963年長崎市生まれ。神奈川県平塚市育ち。早稲田大学卒業。86年日本経済新聞社入社。奈良支局長、文化部紙面担当部長などを経て、2012年から現職。長年にわたって文化部でポピュラー音楽を中心に取材。インタビューした相手はブライアン・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、スティング、ライオネル・リッチー、ジャクソン・ブラウン、ジャネット・ジャクソン、ジュリエット・グレコ、ミシェル・ペトルチアーニ、渡辺貞夫、阿久悠、小田和正、矢沢永吉、高橋幸宏、松任谷由実ほか多数。クイーンのファンでCDのライナーノーツも執筆。

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