KOHH、最終作『worst』に至るまでーー動物性のゆくえ
動物みたいなアーティストだね――地元クルーとともにわいわいやっていたKOHH & MONY HORSE「We Good」や、その後間髪入れずにドープなトラップチューンを連発しまくっていた2013年~2014年頃、KOHHに対して、私は最大限の賛辞を込めてそう思っていた。凡百のアーティストとは違う、何か抜群の運動神経と身体感覚で動いている、生き物として別物かのようなある種の特異性を感じていたのである。
“KOHH以前”という時代
彼が現れる前のゼロ年代、日本のラップミュージックはSEEDAによって一つの完成形を見ていた。最高のビートに対して、“これしかない”という完璧なリズム感と間合いと押韻でラップし、高すぎるスキルで完全無双を果たしていく。かくして、ラップミュージックは芸術となった。技巧的なもの。真似できないもの。美しいもの。崇高なもの。ラップゲームによる批評性と技術鍛錬の連鎖が化学反応を生み、高いクオリティを更新していった。と同時に、ラップ史の蓄積はハイコンテクストな文法と暗黙のルールを次々に整備し、頭でっかちなジャンルと化していたこともまた事実である。
そんななか、海の向こうへ目を向けると、USのサウスヒップホップが従来のラップミュージックの完成形に揺さぶりをかけつつあった。象徴的なのはLil Wayneで、2008年にリリースした『The CarterⅢ』で覚醒したラップを披露し、 築き上げられたラップのセオリーを野生の嗅覚でもってことごとく破壊していった。あえて小節の頭でもお尻でも韻を踏まず、歌うようにラップし、拍がとりにくくノれないのだがノれるという、頭脳よりも身体性が先立ったようなめちゃくちゃな、しかし新しいラップのノリが提示された。Lil Wayneが示した鮮烈なルールの上で、その後トラップのビートは音数を減らし、密度を下げ、空白を多く用意し、ラップの自由演技を促していった。その後のUS、全世界におけるトラップの一大ムーブメントは周知の通りである。
KOHHの動物性
Migosが「Versace」でその後の時代の潮流となる決定的な一手を示した翌年である2014年、彼らのラップスタイルに正しく反応し、日本語の魅力を存分に味わえるよう咀嚼しなおす形で、KOHHは満を持して1stアルバム『MONOCHROME』をリリースした。実は2ndアルバム『梔子』(2015年)の方が先に作られており、この2枚をもって彼のポジションは確固たるものとなった。国内におけるラップミュージックのコンテクストとルールが、ここで一旦無効化された。当時からKOHH(と高橋良をはじめとした取り巻きメンバーたち)のUS最先端ラップミュージックを取り入れる早さは随一で、その瞬発力はまさに野生動物のようだった。そして私が最も強調したいのは、オリジナリティのあるラップを追求し熱心に努力もするけれど、その過程で決して身体感覚を忘れることはなかった、という点である。耳と頭で吸収したことが頭と口で発散されるのではなく、最後必ず身体から発散される。リズム感が良い、ということとも何か異なる、野生の勘と瞬発力としか言いようのない、真似できない魅力を放っていた。KOHHの身体から放たれる律儀な、はっきりとした発音の日本語。ビートとは別軸で二重のリズムを生みつつも、どこかフラフラとズレ彷徨うノリ。そこで紡がれる欲望に忠実なリリックも、動物性が表象されていた。〈遊んでおいしいごはんが出て/また夜はおやすみ/起きたら朝〉(2013年『YELLOW T△PE 2』収録「Junji Takada」より)。食う。交尾する。歌う。それが生きることだから。それがきもちいいから。
平易で陳腐なリリックから成っているKOHHのラップがなぜかくも中毒性を生み出すのか、様々な分析が試みられた。imdkm氏による譜割りから見た革新性や、佐藤雄一氏によるパウル・クレーを援用したモワレ的立体としての独自性(『ユリイカ』2016年6月号(青土社)「なぜ貧しいリリックのKOHHをなんども聴いてしまうのか?」)など、多くの魅力的なテクストが花を添えた。彼のリリックから立ち上がる“リアルさ”という概念について論じた吉田雅史氏による重厚な批評も生まれた。ファッションやアート業界からも、多くの声がかかった。幸福にも、KOHHという人物に対してあらゆる手を尽くし意味性が生成された。