米津玄師、King Gnu、Official髭男dism……それぞれの楽曲に含まれた“切なさ”とは何なのか 楽曲/メロディ構成を分析

 そうした視点で改めて米津玄師、King Gnu、Official髭男dismらの楽曲を聴いてみると、まさにそれらが「心の琴線に触れる切ないメロディ」を持つという理解が、まったくもってその通りであると確認されるでしょう。J-POPの伝統を深く受け継ぎながら磨き上げられた文化的構成物として、すでにして「切なさ」を惹き寄せる性質。あるいは、「類似説」的な理解から導かれる擬人的な楽曲/メロディ構成。そしてまた、「ペルソナ説」的理解から導かれる、投影的存在としていくらでも架空的鑑賞者を代入することが可能なような、典型的メロディ展開と、それを下支えする循環的な再生産構造。これらはおそらく別のことを指しているようでいて、もしかすると深く関連し合いながら同圏域に属している事柄なのかもしれません。

 本当に、こうやって考えてくると、米津玄師、King Gnu、Official髭男dismの楽曲は確かに多くの人から共感を得て、爆発的なセールスを挙げているというのも当然という気がします。けれど、そういった「大文字の切なさ」みたいなものがどうしても苦手(スミマセン……)な私としては、自身が普段きょうびのJ-POPをほとんど聴かない理由もこれまで以上にはっきりと見えてきたのでした……。

 おそらくマーケティング/商業上の要請も合流する形で、今後ますますこういった「切ない」音楽が巷を席巻することでしょう。そのたびに虚心坦懐、いろいろと考えていきたいところであります。結句、私に巣食う「普段J-POP聴かないぜ」というような鼻持ちならない「インディー・スノビズム」のようなものにしても、「切ないメロディ」に心動かされる人が多くいるという事実と、美学的な次元では(どちらが文化的に有意な批評対象として優れているかという議論に立ち入るということを保留するなら)極めてパラレルなことなのですから。

参考文献:源河亨(2019)『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』慶應義塾大学出版会

■柴崎祐二
1983年埼玉生まれ。2006年からレコード業界で宣伝制作業務に携わり、多くのアーティストのA&Rディレクターを務める。現在は音楽ライターとしても各所に記事を寄稿。
Twitter(@shibasakiyuji)

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