『ストレンジャー・シングス』は80年代ポップカルチャーをどう再編集したか? 使用楽曲から考察

 そしてもう一点。これまで書いてきたように、『ストレンジャー・シングス』の世界は、80年代半ばのアメリカのポップカルチャーや風俗に関して、徹底してこだわったものとなっている。けれども、それはあまりにも精緻であるがゆえに、当時ティーンエイジャーだった人々にある種の“懐かしさ”を感じさせつつも、実際の自分の体験とはどこか違う、言わば“あこがれ”のような感覚を抱かせるのだ。ある一面においては、自分も過去に親しんできたカルチャーではあるものの、果たして当時、これらのカルチャー全体を俯瞰・網羅し、包括的に楽しんでいた少年少女など、本当にいたのだろうか。それもそのはずである。『ストレンジャー・シングス』のクリエイターである双子の監督コンビ、マット・ダファーとロス・ダファー──通称“ダファー兄弟”として知られている彼らは、いずれも1984年生まれなのだから。すなわち彼らは、自らの実体験として、その時代を謳歌してきた世代ではないのだ。無論、彼らはある種のオタクと言っていいぐらい、当時のカルチャー全般に関しての造詣が深い。けれども、そのほとんどは後追いで知ったもの、彼らが自ら好んで選び取ってきたものであり……つまり、そこにあるのは、実体験としての“懐かしさ”ではなく、むしろ純粋な“あこがれ”に近いのだ。それは、本作の登場人物たちを演じている少年少女たちにとっても同じことなのかもしれない。彼らは80年代半ばのポップカルチャーに囲まれながら、それを心の底から楽しんでいるように見えるから。それこそが本作を、ある年代の人々にしか伝わらない回顧主義的な物語ではなく、むしろ“ミレニアル世代”にとって新鮮な発見と気づきに満ちたドラマにしているのだろう。

 そこで思い起こされるのは、昨今盛り上がりをみせている“ヴェイパーウェイブ”と呼ばれる音楽ムーブメントの存在である。本来であればネット上に流出していないはずの竹内まりやや山下達郎の音源が、ここ日本とはまったく別のコンテクストで、アメリカやヨーロッパの若者たちのあいだで愛聴されているという状況。そこにあるのは、もはや未来に対して無邪気な希望を抱くことのできない彼/彼女たちがあこがれを禁じ得ない、“失われた消費文化”のきらびやかな断片たちではなかったか。今は存在しないけれど、かつて間違いなく存在していた“鮮やかな過去”への憧憬と幻想。そう考えると、少しペシミスティックな気分に陥りがちではあるものの、それらの無意識的な欲望を捉えながらそこに耽溺するのではなく、その断片を自ら再編集してそこから現代の視聴者にも通じるオリジナルの創作物を立ち上げてしまったこと。それが、ダファー兄弟の何よりもすごいところであり、『ストレンジャー・シングス』が、現在のポップカルチャーのなかでも、とりわけ異彩を放っている理由なのかもしれない。

■麦倉正樹
ライター/インタビュアー/編集者。「smart」「サイゾー」「AERA」「CINRA.NET」ほかで、映画、音楽、その他に関するインタビュー/コラム/対談記事を執筆。

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