元ビーイング名物プロデューサー中島正雄が語る「パクり」のクリエイティブ論

「ミュージシャンもスタッフも、環境が育てる」

――ビーイングが成功した最大の要因は何だと思いますか?

中島:ビーイングが上手くいった最大の理由は、会社を始めた頃、僕らが原盤権とか出版権を含めて音楽ビジネス全般について「何も知らなかった」からですね(笑)。何にどれくらいのお金がかかるのか、全然知らないからこそ、他の音楽事務所とは違うやり方に見えたというか。例えば収録ものの音楽番組に誰かが出たとき、本番撮り終わったあとに「すみません! サビのところでボーカル低くなったんで、もう1回お願いします!」と言うじゃないですか? それは何も知らないから言えることで、5分の曲でも撮り直すと30分はかかるし、そうなるとスタッフの半数はタクシーで帰さないといけない。イントロのドライアイスも1回10万円かかる。もし知っていたら「もう1回」なんて言えないですよ(笑)。でも、大したことじゃない程度のことでもこだわって「もう1回」と言うと、番組のプロデューサーとかは、「こいつらは音楽に真剣で、純粋に言ってるな」と感じてくれて、「わかった、やろう」となるんです。そういう風にして生まれる雰囲気が番組にとっても、ミュージシャンにとっても良かったんですよね。だからビーイングがうまくいった最大の理由は「知らなかった」から。

――知らなかったからこそ、大胆なチャレンジが次々とできたわけですね。

中島:しかもビーイングには、そういう大胆な発想を形にするだけの実行力があったんです。ビーイングは、音楽プロデューサーの元祖みたいな人物である長戸大幸さんが理想を抱いて始めた会社で、みんなで「これを今すぐ、こうやろう!」と考えたときに、彼はすぐにスタッフとかアレンジャーとか、スタジオのエンジニアとかも含めて実行部隊を用意できたんです。もし長戸さんがいなければ、数々のアイデアも机上の空論で終わっていたはず。

ーー長戸さんはどのようにして実行部隊を作り上げたのでしょうか。

中島:長戸さんはビーイングの唯一の営業マンだったのですが、打ち合わせで「長戸さん、こういう感じの曲がちょうど欲しかったんだよね」とか、「ここがちょっと穴あいちゃって、こういう曲ないかな?」というのに対して、「ちょうどいいのありますよ!」と言って、ただで受注してしまう人だったんです。それで僕に対して「中島、明日の昼までにこういうの作んなきゃいけないんだよ」って。本当はないのに「ある」というから、嘘にならないように必死で人をかき集めてなんとか注文通りに作り上げるわけです(笑)。つまり、僕は長戸さんの実行部隊の一人だったわけですね。そうこうしているうちに色んなスタッフが集まって、本当になんでもすぐできるようになって、タイアップもどんどん決まっていったんです。

――海外のレーベルでいうと、モータウンは自社にミュージシャンや編曲家をたくさん抱えて、次々と作品をリリースできる体制を整えていました。日本でそういったシステムを築いたのは、ビーイングが初めてかもしれませんね。

中島:そうかもしれないですね。僕らの場合は、音楽ビジネスについて何も知らないから、最初に「バードマンスタジオ」という音楽スタジオを作ったんです。80年代の後半でしたね。でも、毎日スタジオが埋まるようにスケジュールを入れても全然元が取れなくて(笑)。計算したら、1日10時間みっちり埋まっていないといけない。だったら自分達で音源を作って、レコード会社に買ってもらおうということになったんです。順番がめちゃくちゃだったから、結果的に音楽制作に関するすべてを自社で整えることになって、それが独自のシステムになっていきました。長戸さんが新しく何かを受注して、それをなんとか実現しようと四苦八苦するうちに、形になっていったのです。

――そのようなシステムから、B’zやZARD、大黒摩季さんのようなスター性のあるアーティストが育った理由はなんでしょう?

中島:ビーイングが作り出した“環境”が良かったのだと思います。僕は、人は環境で決まると考えていて。例えば日本人の両親から生まれた赤ん坊でも、ニューヨークの孤児院にぽんと預けてそれっきりだったら、英語しかしゃべれないし、逆もそうです。つまり人間は環境によって育つわけです。ビーイングは自分たちで何もかもやっていたので、「みんなで作る」のが当たり前の環境になっていました。

ーーそれで歌詞も書けて、曲も作れるようになっていくと。

中島:「みんなで一緒にやろう!」という感じでスタートするので、もともと歌詞を書いたことがない人も、作曲をしたことがない人も、制作に携わることになる。B’zの稲葉浩志も、最初は歌詞を書いていなかったのが、必要に迫られて書くようになって、結果が伴っていきました。つまり、才能を見抜いてどうのということではなくて、良い環境の中で上手くやっていくかどうかなんですよ。ただ、「馬を水辺に連れて行くことはできても水を飲ますことはできない」ということわざがあるように、良い環境があってもそこからどうすれば伸びるかは、人それぞれで一概には言えません。当然、そういうことに興味を持ちきれない人は、他のところに行く。ミュージシャンもスタッフも、みんな環境の中で育っていきましたね。

ーー教育方針などはありましたか?

中島:教育方針に関しては、僕はプロデューサーで人の作ったものにケチを付けるのが仕事なのですが、最低限、「あんたには言われたくないよ」と思われる存在にはならないように気を付けていました。「ちきしょう、中島に言われるなら作り直そう!」と思ってもらえたら、ほぼ100%の確率で前回より良いものが仕上がってきます。そして、もし良いものが仕上げってきても、安易に「おお、良いね!」とは言わない。そこで「もっと良くなるんじゃないの?」と言うことで、作り手はさらに先を考えるようになるのかなと。「あんたには言われたくないよ」と思われないようにするためには、しょっちゅう飯を奢るとか、たまには「なるほど」と思うことを提案してあげるとか、ちょっとしたことでも色んな方法があると思います。

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