栗原裕一郎の音楽本レビュー 第15回:矢野利裕『SMAPは終わらない 国民的グループが乗り越える「社会のしがらみ」 』
〈SMAP的身体〉とは一体何か 栗原裕一郎の『SMAPは終わらない』評
本書が発売されたのは今年の8月9日で、8月14日にSMAPの解散が発表された。
つまり「SMAPは終わらない」と力強く断言したそのわずか数日後に解散が決定してしまったわけだ。何かに呪われているのではないかというほどの間の悪さだ。おまけにこの本は、著者の矢野利裕にとって初の単著となる大切な1冊なのだ。まったくご愁傷様よりほかに言葉もない夜空の向こうというべき事態である。
解散発表後に発売がズレ込まなかったのがまだ不幸中の幸いだったとはいえ、Amazonのカスタマーレビューには早々に「時期が悪かったね」「終わっちゃったね」と揶揄するコメントがいくつか付いた。まあ、無理もない。一言いいたくなる気持ちはよくわかる。
だが残念なのは、むしろ彼らのほうではあった。彼らは中身を読んでおらず、タイトルだけを見て脊髄反射でコメントを書いたせいで滑ってしまっていたからだ。なぜそう言い切れるのかというと、SMAPが現実に解散する/しないは、実は本書の趣旨にあまり影響しないのである。
実際、矢野は最初のほうでこんなことを書いている。
「あんな表情を見せられるくらいなら、グループとしてのSMAPの存続など何の意味もない。いっそ解散してしまえばいい、とすら思った」
今年1月18日の『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)冒頭でなされた、メンバーたちによる解散騒動への謝罪に対する反応である。黒い幕の前に5人がスーツ姿で雁首を揃え、死んだような顔で、木村君のおかげでジャニーさんに謝る機会が云々としゃべっていたあの謝罪シーンだ。この謝罪によって解散騒ぎが小休止したのはご存知のとおりだが、矢野は、あんな姿を晒すくらいなら解散したほうがいいというのである。
SMAPが解散するしないが本質的な争点ではないというのなら、この本は、では何を問題にしているのか。
矢野の言葉でいえば、それは〈SMAP的身体〉である。
〈SMAP的身体〉
〈SMAP的身体〉とは何か。90年代という時代を通してSMAPが身に付けていった、80年代までのジャニーズアイドルとは異なる所作のことだ。
80年代はアイドルブームだったのが、90年代には一転「アイドル冬の時代」になったというのはよくいわれるところだ。アイドルポップスと入れ替わるようにバンドブームが始まる。
矢野は、こうした転換は、虚構からリアルへ志向が移り変わったために起こったのだという認識に立つ。
ジャニーズでいえば、少年隊や光GENJIがきらびやかなスター性を売りにしていたのに対し、SMAPはカジュアルなスター性という新しい存在感を切り拓くことで90年代を生き延び、国民的スターの地位を獲得していったのだと見る。
「挫折と苦心のなかで育まれた〈SMAP的身体〉ーーそれは、スター性を手放したが故に逆説的にスター性を獲得した身体である」
SMAPのカジュアルさといっても、アメカジを基調とした彼らのファッションだけを指しているわけではもちろんない。歌もダンスもイマイチでジャニーズ本流から外れており、デビュー時は振るわなかったSMAPが、バラエティ番組に進出し、トークをし、コントをやり、お茶の間に身近な存在感を浸透させ、「自由と解放」を掴み取っていったこと。矢野が重視するのはそこだ。そのカジュアルな存在感は、ダウンタウンやナインティナインなどと近い質のものだったともいう。
ただし、ダウンタウンやナイナイが旧来的な演芸を打破する方向で進んでいたのに対し、SMAPは逆に旧来的な演芸をモデルに「芸人」的な身体性を身に付けていったとする。そうすることでSMAPは、それまでアイドルのやることとは思われていなかったコントやトーク、司会などを、歌と踊りと同列のものとしてアイドルの営みに組み入れてしまったのである。
もっとも、クレイジーキャッツやドリフターズといった先達を見ればわかるように、そもそも音楽と演芸は表裏一体の「芸能」だったわけだから、SMAPはある意味では先祖返りしていると見ることもできる。
ともあれ矢野は、歌もダンスもトークもコントも同列にアイドルの営みとすることに成功したSMAPのカジュアルな存在のあり方を〈SMAP的身体〉と呼び、それによって彼らが勝ち取った、ジャニーズタレントという既成の枠を超える「自由と解放」を評価しているのである。
『SMAP×SMAP』の謝罪会見に矢野が失望したのは、事務所の旧弊な体質に囚われた彼らの表情や振る舞いが、「自由と解放」をすっかり失い、〈SMAP的身体〉を損ねているようにしか見えなかったからだ。結局のところSMAPといえども、我々とさして変わらない、社会のシガラミの中で生きている個人個人であることを露見させてしまったからだ。
そしてそれは、SMAPに留まらず、芸能というものの本質的な役割を損ねることにほかならない。
「社会的な関係性からほんのひととき自由になりたいからこそ、僕らは歌や踊りや芝居に触れようとするのではないか。だからこそ、自由と解放の気分をまとったSMAPを観たり聴いたりするのではないか。その、ほんの一瞬の解放感こそが、〈芸能〉的な真実ではないか」
矢野がここで論じているのは、SMAPのことでありながら、SMAPを超えたもっと一般的な問題である。「SMAPは終わらない」というのは、たとえSMAPが解散しても、SMAPが切り拓いた〈SMAP的身体〉という新しい芸能のかたちは消え去ったりしないという、予言でありメッセージなのだ。
「もし希望があるとすれば、それでも芸能は社会を超えてくる、ということだ。あらゆる社会的な困難にあるときこそ、歌と踊りと笑いが必要とされる。芸能は最後の最後、社会を超えてくると信じている。(…)こんなことがあったからこそ、すでにSMAPの音楽を聴きたくなっている。この欲望自体に、社会に負けない芸能の強みがあらわれている」