兵庫慎司の「ロックの余談Z」 第10回

私たちは客席でどう「映り込む」べきなのか? 兵庫慎司がライブ現場から考える

 バカか俺は。という話だが、大会場における重要なライブの場合、収録や、生中継や、ネット配信や、場合によっては全国の映画館でライブビューイングのため、カメラがたくさん入る、というケースが、数年前に比べてあきらかに増えていることは、日頃ライブに通うことが多い方ならご存知だろう。

 そしてその場合、どうやったって客席も映るわけで、であれば我々は、映された場合どうするか、どう映されるべきか、ということを意識せざるを得ないことになる。そんなの意識すんなよ、いつもどおり楽しんでいればいいんだよ、という声もあろうが、ライブレポートを書くために入場している方が圧倒的に多い僕のような立場だと、そうすっぱり開き直る気には、なかなかなれない。そんな立場なんだから悪目立ちしたくない。さっきも書いたように、できれば映らないにこしたことはないんだけど、「絶対映すんじゃねえぞ」なんてわけにもいかない。

 あと、僕の場合「はしゃいでいるところを見られるのが恥ずかしい」というのも大きい。大好きなアーティストのライブ映像作品が出たので買って観たら、客席でノリノリの自分の姿が映っていて、死にたくなった──と、知人の編集者にきいたことがある。幸い、僕にはそのような経験はないが、彼女の気持ちはすごくよくわかる。自分に同じことが起きたら……と想像すると、身悶えしたくなる。
 
 ただ、この「はしゃいでいるところを見られるのが恥ずかしい」という性格は、個人差だけでなく、世代もしくは時代によるところも大きいと思う。というのも、昨今のフェスの映像のお客さんを観ていると、「みんなはしゃいでるところを撮られるの、平気なんだなあ」という次元を超えて、「みんなはしゃいでるところを撮られるの、うまいなあ」と、つくづく思うからだ。

 みんな集まって、タオルとか掲げてイェーイ!とかやってる写真、フェスの公式サイトとかによくあるでしょ。ロッキング・オンの夏冬のフェスのサイトには、主にそれをアップする「AREA REPORT」というコーナーがあるほどだ。「あるほどだ」って、そのコーナーを2014年の暮まで作っていたのは、僕とTという後輩なのだが(Tは今でも作っている)、自分でお客さんの写真を撮る時も、Tが撮ってきた写真をセレクトする時も、「みんないい顔してるなあ」というのももちろんあるが、「みんないい顔で撮られるのうまいなあ」とも、よく思ったものです。

 それ以上に「撮られるのうまいなあ」と思うのが、サマーソニックのお客さん、そしてさらにそれ以上にうまいのが、EDMとかのダンス系野外フェスのお客さんだ。特に女子。カメラに笑顔でちょっと手を振ったり(「ちょっと」なのが重要)、ニコッとウインクしてみせたり。雑な言葉を使ってしまうと、「リア充」度の高そうなお客さんであればあるほど、そのような「欧米か!」みたいな素敵なリアクションを自然に返せる傾向にある、と言える。「今この場なら、このように撮られるのがふさわしい」ということをちゃんとわかっていて、それを実行する際によけいな照れがない。夜、新橋の駅前でマイクを向けられるほろ酔いのサラリーマンが、みんな判で押したように「あるべき受け答え」をしているのをテレビで観る感じに近い、というか。

 しまった、その例を出したらちょっと悪口っぽくなってしまった。いや、違います。その新橋の例から、こちらの視線の中の悪意を引いた感じ、というのが、より正確な言い方です。あのサマソニとかのビジョンに映るみなさん、フェスの空気をよくする方に働くことはあれど、ネガティヴな要素は一切ないし。

 要は、さっきから書いているように、「はしゃいでいるところを見られるのが恥ずかしい」という「よけいな照れ」がじゃま、というだけの話だ。おまえはそんな照れてんのか。それじゃ全然楽しくないじゃん。うん。そのとおりだ。実は今はまだましになった方で、10代の頃はもっとそうだった。音楽の大事な楽しみ方のひとつを自ら放棄したみたいな、いびつな思春期をすごした、と、自分でも思う。クラブとかライブで踊れるようになったの、30を過ぎてからです。それもアルコールの力を借りて。

 しかし。こういうことを考えるたびに、あれは本当に見事な「映され方」だったよなあ、と、今でもありありと思い出す経験がある。

関連記事