兵庫慎司が傑作アルバム『葡萄』を再考

サザンは2015年の「みんなのうた」を作ったーー『葡萄』が日本レコード大賞最優秀アルバム賞に輝いた意味

 

 90年代以降の日本のポップ・ミュージックの状況を指して、「昔は誰でも知っている歌がヒット曲だったのに、何百万枚も売れているのにファンしか曲を知らないのが普通になってしまった。『みんなのうた』と呼べるようなヒット曲がなくなった」というような言い方は、その90年代当時からよくされてきた。それ以前、つまり「誰でも知っている曲がヒット曲だった頃」がどういう時代だったのかというと、地上波のテレビ番組がヒット曲の発信ツールだった時代だ。今「地上波」と書いたが、80年代には当然テレビは地上波しかない。ラジオも、NHK以外の民放のFMが、ようやく東名阪以外のエリアにも誕生し始めた頃だった(僕は広島出身だが、地元にNHK以外のFM曲、広島FMができたのは1982年、中学2年の時だ)。

 音楽を世に発表するメディアが「テレビ」「FMラジオ」「AMラジオ」「有線放送」の4つしかなく、そのうちもっとも影響力のあるテレビは当時各家庭に1台というのが普通で、だから視聴者がみんな同じ場所にいた、つまりお茶の間にいたので、ヒット曲というものが「誰でも知っている」存在でいられた、とも言える。

 アナログ盤からCDになったことも手伝って、あと90年代中盤頃から「J-POP」という概念が生まれたこともおそらくガソリンになって、音楽ソフトの総売上数自体は80年代よりも90年代の方が大幅に増えているのだが、個々のヒット曲の「誰でも知ってる度」は下がっていった。音楽の受け手の細分化が進んで、それぞれの文化圏・生活圏によって好んで聴く音楽が異なり、テレビが一家に1台のものではなくなり、家族のいる場所ではなく個々の部屋や携帯音楽プレイヤーで音楽を聴くようになる、つまりファンには深く強く届くがファンにしか届かない、といったような音楽の聴かれ方が主流になっていく──。

 と、ビジネス誌の記事のようなことを書いているが、そんなふうに、まだ「みんなのうた」が「みんなのうた」として成立し得た最後の時代に、「みんなのうた」というタイトルのヒット曲を放ったりもした(1988年)サザンが、デビュー時からそのような「みんなのうたを作るのだ」という意志を持っていたのかというと、怪しい。デビュー当初はキワモノ的な評価もあったし、3枚目のシングル「いとしのエリー」の大ヒットで正当な評価を得られるようになったあとも、サザンはアンモラルで猥雑な要素を、歌詞やビジュアルやステージ・パフォーマンスなどに入れ続けてきた。桑田佳祐は洋楽へのリスペクトと共に日本の歌謡曲への愛着を持ち、それをルーツとしているので、楽曲はそうした意味での大衆性を持っていたが、親が子供に勧めることができるようなものはやりません、じゃないことを音楽に求めているんです、という姿勢がどこかに必ずあった。

 初期だけではない。すっかり国民的バンドとしてのポジションを確立した頃(1995年)にリリースしたシングルは「マンピーのG★SPOT」だったし、活動休止前の「BOHBO No.5」は前向きなメッセージ性を孕む内容だが、それをシモネタでコーティングしている歌だ。

 そうしたサザンのこれまでの歌が「みんなのうた」たり得なかったのかというと、70年代・80年代においては間違いなくそうなっていたし、「みんなのうた」が死滅し始めた90年代に入っても、まだその効力を持っていた唯一無二の存在だったと思う。ただ、それはあくまで結果であって、「みんなのうたを作ること」を第一に求めたわけではないのではないか。

 ということに、僕は『葡萄』を聴いて気づいた。昨今のJ-POP界隈には見られない、まさに「みんなのうた」が集まったアルバムだったからだ。

 誰が聴いても意味がわかるような、シンプルな言葉遣いで歌詞を書くこと。そこに切実な思いがこもっていて、そのことが聴き手に伝わること。その言葉がクリアに耳に飛びこんでくるようなメロディとのフィット感、トラックとのフィット感を持っていること。このアルバムのおそるべきシンプルさは、そこを目指した成果だと思う。そしてそれが、桑田佳祐の考える「みんなのうた」の定義なのだと思う。なお、エロ系の曲は「天国オン・ザ・ビーチ」ぐらいで、しかも曲調の明るさのせいで、さして淫猥には聴こえない。

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