リアルサウンド映画部 記事先行公開Part1

菊地成孔が語る、音楽映画の幸福な10年間「ポップミュージックの力が再び輝き始めた」

失われた“アメリカの誇り”とポップミュージック

 そうした背景もあるなかで、アメリカで00年代前中盤あたりから、失った誇りを取り戻すように「この国にはポップミュージックがあるぞ」と世界に示す作品が勃興してきます。例えばモータウンの初期やザ・スリー・ディグリーズを描いた『ドリームガールズ』(2006年)、先ほどの『キャデラック・レコード』もそうですが、「20世紀のアメリカのポップミュージックは単なるドーナツ盤、子どものおもちゃじゃない。世界的な文化遺産なんだ」と。

 そもそもアメリカのポップミュージックは、移民とマイノリティの国だという土台の上で生まれている。だから、1920年代末期のハリウッドミュージカルから2000年代のダンスミュージックまで、“チャラい”ヒット曲のなかにも、人類が路頭に迷ったときの答えがあるんです。自分がマイノリティだと感じたとき、マイノリティであることに誇りを持てる要素が、メロディーに乗っている。社会情勢と音楽とのかかわりを振り返っても、アメリカは大恐慌をミュージカルという処方箋で乗り越えました。世の中がもうめちゃくちゃで、明日なき世界だというときに、MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)のミュージカルがアメリカ人を勇気づけた。2000年代は当時に比べればいくらかマシですが、せっかく黒人のオバマが大統領になったのに、差別はなくならないし、サブプライム危機で格差も広がるというひどい状況で、ポップミュージックの力が再び輝き始めたんです。

 僕はその極点が、TVドラマの『glee/グリー』(2009年~2015年)だと思うんですよ。田舎の高校を舞台にグリークラブ(合唱部)が奮闘するさまを描いた作品だけれど、本来アメリカでは、女子ならチアリーディング部、男子ならフットボール部がイケていて、グリークラブはどうしようもないやつが入る、ダサいものだとされている。そんなグリークラブの子たちが、マドンナやレディー・ガガというポップミュージックを見事に歌う――最初は単にそのギャップが面白がられているという感じだったのが、段々とそういうレベルでは収まらないほど、評価が高まっていきました。僕もDVDを全セット購入して、観るたび泣いてるんですけど(笑)。

『glee/グリー』が象徴する幸福な10年、その先は?

『ピッチ・パーフェクト2』/(C)Universal Pictures

 この『glee/グリー』を筆頭に、近年は本当に多くの優れた音楽ドラマ/映画が生まれたんじゃないかと思います。フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」の作者、クロード・フランソワを扱ったフランス映画の『最後のマイ・ウェイ』(2012年)も見事な出来だったし、バーで歌っていた女性と音楽プロデューサーの出会いと運命を描いた『はじまりのうた』(2013年)も素晴らしかった。今年公開される続編が本国でとんでもないヒットを記録している『ピッチ・パーフェクト』(2012年/日本公開は2015年5月より公開中)のような“ピッチ”と“ビッチ”を引っ掛けたお子さま向けの映画も、観てみれば合唱の素晴らしさを感じて「オゲレツでエロくてもいいじゃないか!」と思わされたし、この10年は凡作が本当に少なかったんです。

 この10年、ポップミュージックは一時期のゴスペルのように、ほとんど宗教のような強さを持って人々に力を与えてきました。死にたい人に生きる希望を与えたり、ともすれば消えてしまいがちな愛というものに着火したり。性的なマイノリティ、民族的なマイノリティ、あるいは「自分はダメなんだ」と思ってしまう神経症的なマイノリティズムを持った人たちが、音楽を聴き、歌い、踊ることでどんどん浄化されて、“愛されないし愛していない”状態から、“愛し愛される”状態になる。それは僕が音楽家として追求してきたことのコアだから、自分のイズムにも合っていたし、音楽映画全体と歴史から見ても「幸福な10年」と語られるときが来るかもしれない。

 ただ、悲観的にも楽観的にでもなくフラットに捉えた場合、音楽が持つ力はそれだけではない。つまり、人を狂気に誘ったり、悪用したりもできる。今後はそういう音楽のダークサイドを扱う作品も出てくるんじゃないかという予感がしていて。実際、自身のブログで書いた記事が散々話題になってしまった『セッション』(2014年)は、音楽映画が曲がり角に入ったことを告げる作品だったと思います。(後編に続く)

(取材・構成=編集部)

■公開情報
『ピッチ・パーフェクト2』
10.9(金) TOHOシネマズ六本木ヒルズ にて先行公開
10.16(金) 全国ロードショー開始
配給:シンカ、パルコ

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